氷河の手許には、瞬と“恋”を議論するために購入した佐藤春夫の詩集があった。 『うれいは清し、君ゆえに』 ――この思いだけは清らかです。あなたを思っているのだから――。 初めて読んだ時には不快としか感じられなかったあの詩を、幾度読み返したことだろう。 その詩を不快と感じる気持ちに変わりはなかったが、氷河が今その詩を憎むのは、初見の時とは全く違う理由のせいだった。 錯覚ならいい。 そう思い込みたくて、思い込んでいるだけなら、この詩を書いた男は本当におめでたい男だと思う。 だが、瞬は本当に“清らか”なのだ。 氷河は、佐藤春夫が羨ましくてならなかった。 恋の相手を一方的に清らかなものに仕立て上げて、詩人は幸せに“切ない恋”に酔っていられるのだから。 本当に清らかな人間が相手であれば、その人を自分の醜悪さが汚すことへの恐怖が先に立つ。 自分は卑しい人間だと卑下してみせながら、佐藤はその恐怖を覚えなかったのだろうか。 氷河は、自分を卑しい人間だと自覚していた――少なくとも高潔な人間ではないと思っていた。 だから、彼はその恐怖をどうしても振り払うことができなかったのだ。 だからこそ、氷河は、瞬に会いたくてならないのに会いにいけないという 二律背反の罠に陥ってしまったのである。 臆病だと、自分でも思う。 自分がこれほど臆病な男だとは、瞬に会うまで知らずにいた。 瞬への恋のせいで――厭世家であるが故に怖いもの知らずだった氷河という男は、ウサギよりも臆病な男に成り果ててしまったのである。 |