最後に氷河に会ってから、既に2ヶ月が経つ。
一時期は ほぼ毎日、ロシアの血が入っているという端正な面差しを見詰めながら、寂しがりやで ひねている子供のような氷河の辛辣な言葉を聞いていられたというのに、既に2ヶ月も瞬は氷河に会うことができずにいた。
彼に会うことができなくなるまでは、瞬は氷河に『会いたい』と思うことがなかった。
そんなことを願うまでもなく、氷河は彼の方から頻繁に瞬の許にやってきてくれていたから。
瞬は『明日も氷河に会えるかな』と楽しみにしていれば、それで済んでいたのだ。

氷河は、異国人である母を この極東の国に連れてきておきながら、最後まで彼女を日陰者にしておいた実父に複雑な思いを抱いているらしく、自身の境涯については あまり詳しく語ってくれなかった。
亡くなった母親と暮らしていた家で 今も一人で生活しているらしいのだが、それが社会的には他人である父に与えられたものであることをはばかっているのか、氷河は彼の自宅のある場所さえ瞬に教えてはくれなかったのである。
最後に会った時、氷河はどこかつらそうな眼差しをしていて――瞬はずっとそれが気になっていた。

瞬の家は子爵家である。
武蔵野の外れに 広くはあるが古い屋敷を構えていて、だから瞬は学校に行くのにも東京市内で氷河と待ち合わせをする時にも、主に都電や乗り合いバスを使っていた。
瞬は氷河の家がどこにあるのかを知らず、氷河もまた瞬の家を訪ねてきたことはなかった。

こちらから氷河に会いに行くことはできない――知らない場所には行きたくても行けない。
となると、つては紫龍しかない。
氷河に会えなくなって2ヶ月。氷河の声を聞けずに過ごす毎日に耐えられなくなった瞬は、ある日思い切って紫龍の下宿を訪ねてみることにしたのである。

下宿――とはいっても、そこは一種の学生寮のようなものだった。
瞬の家とは浅からぬ縁のある伯爵家の当主が、有望な学生の世話をすることを趣味にしている粋人で、彼が本郷にある別邸を数人の帝大生にほぼ無料で住まいを提供しているのである。
費用は出世払いの、個人が趣味で営んでいる寄宿舎のようなもの。
その紫龍の住まいを訪ねていった瞬は、本を椅子代わりにしろと言われそうな彼の部屋で、非常に思いがけない話を聞くことになったのである。

「ああ、それが……。氷河の書きなぐった詩が、白樺主宰の目に止まって、彼の推薦で独立した詩集として発行されることになったんだ。最初は逃げまわっていたんだが、何か思うところがあったのか、氷河の奴、突然その計画に乗ることを決めたらしい。それで今、あれこれと多忙にしているようだ」
「詩集? でも、氷河は文学部じゃなく法学部の学生なんでしょう?」
それ以前に氷河は学習院の学生ではない。
彼は、学習院出身者が大部分を占める白樺とは、そもそも関わりのないところにいる学生だった。

もちろん学習院も帝大も、政・財・官・軍等あらゆる分野において この国の指導者を排出してきた機関であり、各界の未来の指導者を育成する機関でもあるという点で、この日本国における立場には似通ったところのある学府である。
両校の間での人的交流はそれなりにあった。
その上、氷河は学習院でも知らない者はないほどの有名人。――そうであることを、瞬は学友から教えられた。
帝大の詩人を 学習院出身の文人たちが知る機会は皆無ではない。

だが、それにしても、あの氷河が詩集とは。
いったいあの氷河がどんな詩を紡ぐのだろう。
瞬は正直なところ、氷河が書く詩そのものはもちろん、彼が詩作にふけっている姿というものも想像することができなかった。

瞬が抱いた意外の念は、紫龍も一度は抱いた感懐だったらしい。
瞬の不審に同感したように、彼は縦にとも横にともなく首を振ってみせた。
「俺たちはそれを『忌情詩集』と呼んでいるんだが、自分の書いた詩は佐藤春夫の『殉情詩集』への強烈なアンチテーゼ、パロディだと、本人は言っている」
「恋を馬鹿にした詩?」
「いや、確かに『殉情詩集』への批判になっているんだが、それが全編 熱烈な恋の詩で――氷河の奴、誰かに恋をしているのだとしか思えない」

「恋……の詩?」
それはあまりにも思いがけない――と感じるより先に、瞬は、自分の心臓を誰かに鷲掴みされたような痛みに襲われることになった。
その痛みが大きすぎて、痛みを痛いと感じることができない。
激しく鼓動を打ち始めた心臓が身体中に送り出しているものは熱い血液であるはずなのに、全身が冷たく凍りついていくような感覚に、瞬は襲われていた。

氷河が誰かに恋をしている。
恋と、その恋を綴った詩集のために氷河の心身は多忙で、言ってみれば赤の他人にすぎない生意気な子供に、彼は会いにきてくれなくなった――。
自然なことではあるし、当然のことでもあると思うのに、瞬はその事実に打ちのめされてしまったのである。






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