まもなく発行された氷河の詩集を、瞬は紫龍経由で書店に並ぶ前に手に入れることができた。

氷河は苦しい恋をしているようだった。
彼の詩集には、愛しているからこそ離れていなければならないという詩、愛しているのなら愛する人の崇高と清浄を守るために 恋人は恋人に触れるべきではないと、恋する者を戒めるような詩が並んでいた。
だが、だからこそ逆に、恋人を抱きしめたいという思いが、行間から迸り出ている。

瞬は、氷河が綴ったという詩を読んでいるだけで、自分の身体が氷河の情念に取り込まれてしまったような感覚に囚われた。
読んでいるだけで、氷河の心と腕にがんじがらめに抱きしめられているような、そんな錯覚を覚える。
身体の芯が、燃えるように疼いた。
彼の詩を構成している言葉そのものは厳しく冷たく、哲学書と見紛うほどに人間の理性を鼓舞するものばかりだというのに、それらの詩が訴えてくるものは、紙上にある言葉とは完全に違っていた。

他のものは何もいらない。ただ恋人だけを抱きしめていたいという激情が、すべての詩からあふれ出ている。
氷河の詩はあまりに厳しく、そして官能的にすぎた。

風俗を紊乱するという理由で発禁になった萩原朔太郎の処女詩集『月に吠える』を、瞬は紫龍に借りて読んだことがあったが、氷河の詩は その対極にあるものだった。
恋を拒絶しようとする険しい言葉の一つ一つが、恋の情熱を抑えきれない詩人の苦悶を痛いほどに息苦しいほどに訴えてくる。
朔太郎の『愛憐』も『恋を恋する人』も、氷河の詩の峻厳な なまなましさの前には空想世界の心象を詠った綺麗な絵空事でしかない。
氷河が綴ったすべての詩を読み終えて裏表紙を閉じた時、瞬は軽い目眩いに襲われた。
実際に上体が揺れ、倒れそうになった。

「うん、そうだね。氷河はきっと誰かに恋してるんだ……すごく……情熱的な……」
やっと そう呟くことができたのは、氷河の詩集を読み終えてから30分以上が過ぎた頃。
だから、恋人に会うのが忙しく、あるいは恋人に会えない苦しみに耐えるのに必死で、彼は、生意気な子供に会う時間を割けなくなった。
あんなに――毎日会っていたというのに、瞬はいつも氷河といることが楽しく、氷河もそう感じていてくれているのだと信じていたのに――そんなことは恋の前には無意味で、塵も同然に吹き飛ばされてしまうようなことでしかなかったのだ。

「誰なの……いや……」
あの幸福だった時間を奪った氷河の恋人が憎い。
憎いと感じている自分自身に瞬は驚愕し、そんな自分を恐ろしいと思った。
だが、それでも――氷河のあの瞳に激情の限りを込めて見詰められている女性が この世界のどこかにいるのだと思うと、苦しくてならないのだ。
それは、瞬にとって、生まれて初めて経験する苦しさだった。
これが嫉妬という感情だと気付いて、瞬はようやく――ようやく、自分が氷河に会うたびに感じていた幸福感が何であったのかを知ることになったのである。

読む者の心を焼き尽くそうとするかのような氷河の詩の激しさから逃れようとして、瞬は、氷河に初めて会った時に手にした佐藤春夫の詩集のページを繰った。
佐藤の詩は、今読むと印象が全く違っていた。
氷河の詩が燃え上がる氷なら、佐藤の詩は穏やかに凪いでいる水面である。
だが、おそらく水底では詩人の思いが激しく渦巻いている。
どちらも、命を懸けていいと思えるほどの恋を知らなければ書けない詩。
自分はこれまで佐藤の詩の表面に表われている水面しか見ていなかった。
その事実に初めて気付いて――瞬は泣かずにはいられなかった。

「切ない恋の詩、役に立っちゃった……」
人は誰もが切ない恋に耐えているのだと、それがわかっただけでも よしとしなければならないのだろう。
佐藤は耐えている。
氷河は耐えようとしている。
だが、瞬の苦しさは、彼等の詩に触れても消えてはくれなかった。






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