「氷河の詩集、読んだんだ。すごいね」 氷河の詩集を手に入れるのに手間をとってくれた紫龍に礼を言うために彼の下宿を訪ねた瞬は、だが、『ありがとう』の言葉より先に、感嘆の言葉を洩らすことになったのである。 それを当然のことと思っているらしく、紫龍は瞬の非礼を咎めもしなかった。 「一躍、流行作家の仲間入りだ。もう重版にとりかかっている。恋に憧れている女学生がこぞって買っているようなんだが、あの詩の真髄は男でないとわからないだろうな。相手は誰だ、本当に」 「……」 氷河の詩集を購読している女学生たちはおそらく、恋を知る前の自分と同じように、なぜ自分がそんな気持ちになるのかも理解できないまま、うっとりと他人の恋に夢見心地で惹きつけられているに違いない。 瞬は、できることなら、ただ幸福に恋の詩を読んでいられたあの頃の自分に戻りたかった。 「氷河の恋の相手がわかっても、僕には教えないでね……」 「瞬……?」 紫龍が怪訝そうな顔を向けてくる。 このままここにいると『氷河に会わせて』と紫龍に泣いて訴え始めてしまいそうな自分に気付き、瞬は急いで本だらけの彼の部屋を辞することにした。 「じゃあ、僕はこれで。氷河に……氷河の恋がうまくいくように祈ってるって伝えて」 心にもない言葉。 本心とは全く逆の願い。 そんなことを口にする自分が醜悪なほど みじめな人間に思えて、瞬は顔を伏せたまま、紫龍の部屋の扉を開けた。 各部屋が独立した共同集合住宅になっている伯爵家の洋風の別邸は、下宿している学生やその客人たちが自由に出入りできるように、日中は正面玄関が開けられたままになっている。 その解放された玄関から、ちょうど紫龍の客人が邸内にやってきていたらしい。 瞬が紫龍の部屋の扉を開けると、そこには、瞬が今 最も会いたいと願い、今 最も会いたくないと願ってもいる人の姿があった。 「あ……」 「しゅ……」 以前は気軽に見上げ見詰めることのできた氷河の青い瞳が、瞬の姿を写し取っている。 視線を逸らしたいのに、逸らすことができない。 どうして こんなにあなたを好きな人間の心を振りきって他の人を恋することができるのだ――と責めてしまいたいのに、そうすることができない。 瞬は全身が硬直し、その場に棒立ちになった。 「瞬……」 かすれた氷河の声が、瞬を我にかえらせる。 瞬は口を衝いて出そうになった恨み言を言わずに その場から逃げ出すだけで精一杯だった。 今の瞬が氷河のためにできることは、それしかなかった。 開けた扉を閉じずに帰るような客人ではないのに――と訝りながら扉を閉じるために本の間から立ち上がった紫龍は、開け放された扉の向こうに、今 芥川や佐藤と争う勢いの流行作家の姿を見い出すことになった。 流行作家は、らしからぬ振舞いで立ち去った客人が駆けていったのであろう方向を、切なげな目をして睨み、苛立ったように その拳を握りしめている。 氷河の全身から たぎる気配は、恋に身を焦がした経験のない紫龍にも容易に感じ取れるほど激しいものだった。 「瞬か、相手は!」 驚嘆と『そうだったのか』という思いが、紫龍の声を大呼めいたものにする。 突然の邂逅の衝撃から立ち直れずにいるのか、氷河は学友の感嘆の声を否定も肯定もしなかった。 ――つまり、肯定した。 |