瞬が奇跡的に怪我もせずに命を永らえたのは、大きな揺れに重心を見失って倒れた場所が、楢の木でできた頑丈な机のすぐ前だったから、だった。
反射的に机の下に身を押し込めた瞬の目の前で、本が詰まった重いオーク製の書棚が叩きつけられるように大きな音を響かせて床に倒れてくる。
その下敷きになっていたら、瞬の身体は簡単に潰されてしまっていたはずだった。
恐怖に目を見開いた瞬の目の前に、次から次へと物が降ってくる。
氷河の詩集を抱きしめて、瞬は、寝台が床を滑る様を、その寝台が洋服箪笥と衝突する様を、陶製の花瓶が砕け散り、最後にガラスでできた室内灯が本棚の上で粉々に砕け散る様を見ることになったのである。

大きな揺れが収まってからも30分近く、瞬は机の下から出ることができなかった。
なんとか勇気を奮い起こして机の下から這い出ると、部屋の東側の壁に面して置かれていたはずの机は、元の位置から3メートル以上離れたところに移動していた。
障害物がなかったら、それは西側の壁に打ちつけられていたに違いない。
幸い、家の柱や壁、天上は元の場所にあった。
家が倒れずに済んだのは、瞬のいた母屋が安政の東海地震や江戸地震にも耐え抜いた強固な造りの建築物だったからだろう。
恐る恐る庭を見ると、明治後期に立てられた蔵は瓦礫と化していた。

「兄さん……氷河……」
これが関東圏を襲った地震なのだとすると、久留米の歩兵第56連隊の視察に行っている兄は まず無事だろう。
だが、氷河は東京市内にいる。
少なくとも2時間ほど前までは、氷河は東京市の中央 本郷区にいた。
反射的に窓の外に目を転じた瞬は、そこから見える風景がいつもと違っていることに気付かされた。
屋敷を囲んでいた塀がすべて崩れ落ちている。
そして、敷地の外に出ればいつもは遠くに微かに望むことができていた東京市の中心にあるビルの影が、今はすべて消え失せていた。

「あ……」
瞬の身に怪我はなかった。
だが――。
「氷河は……どこなの……」
自分が氷河にとっては無意味な存在なのだということはわかっていても、瞬は、今すぐ氷河の許に行きたいという衝動に――こんな時に――かられた。
瞬は何よりも、氷河が無事でいることを確かめたかったのだ。

それが無謀なことであり、無理な望みだとわかるまでに、さほど時間はかからなかった。
氷河は、こんなところに彼の身を案じている者がいることなど知りもせず、別の人のことを心配しているだろう。
それ以前に――屋敷の周辺の風景は一変している。
交通機関も壊滅しているに違いなかった。


「瞬様、ご無事ですかっ」
若い使用人が障害物をかき分けて瞬の部屋にやってきたのは、最初の大きな揺れから1時間が過ぎた頃だった。
兄が家を留守にしている間、この屋敷の差配と指示をしなければならないのは他の誰でもない当主の弟なのだと、今頃になって思い至る。
瞬は、内心で自分自身を叱咤した。

「僕は無事。他のみんなは」
「怪我をした者が幾人かおりますが、軽症です。皆、この建物の頑丈さに助けられました」
「そう。よかった……」
それは本当によかったと思う。
様々な用向きのために、この家に雇われている者は8人。
全員 通いの者で、彼等はそれぞれに家族や家庭を持っているのだ。

「家族が心配でしょう。帰れる者は家に帰らせて。余震があるかもしれないから気をつけて」
「しかし、お屋敷の中が滅茶苦茶で片付けをしませんことには、瞬様が――」
「それはあとでいいから」
「ですが……」
「大丈夫。この家は倒れないよ。いろんなあれこれは後でいい」
古い屋敷は堅牢だが、部屋数が無意味に多く、復旧にどれだけの時間と手間がかかるのか わからない。
人手はいくらでも欲しいところだったのだが、瞬は今は何もする気が起きなかった。
何もかもが滅茶苦茶で、どこから手をつけていいのか わからない。
それ以前に、瞬は今の自分が使用人たちにまともな指示を出すことができるとは思えなかったのだ。

命があったことを喜ぶべきなのはわかってはいても――自分以外の者たちが無事だったことは喜ぶことができるのに――自分が生きていることは さほど嬉しいこととは思えない。
いっそ死んでしまってもよかったのに――とすら、瞬は思っていた。
(氷河にとって僕は意味のないものなんだから……)

自分はこんなに意気地のない投げやりな人間だったろうかと、邸内に散乱した家具や調度を視界に映しながら、瞬は訝った。
氷河への恋を知る前だったなら、少なくとも兄が帰ってくるまでは、自分は懸命に何かをしようと努めることができていただろうと思う。

人はなぜ人を恋するのだろう――?
それは、これほど人間から気力を奪い、ただただ苦しいだけのものなのに。
恋という感情の不条理と不合理を思い、瞬は虚ろな笑みを浮かべて肩を落とした。






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