初夏の夜。空には、ほぼ真円の白い月。
空気も澄んでいてお散歩にはとてもいい具合いです。
本当に、これがお天気のいい午後のことだったなら――と、瞬王子は思いました。
馬を星矢に渡してしまったので、瞬王子はお城まで歩いて帰らなければなりません。
港からお城まで、歩いたら3時間はかかります。
瞬王子の溜め息は、悪者たちにリボンの騎士の正体を知られずに済んだ安堵の溜め息というより、これから始まる深夜のお散歩の道のりを考えて、つい洩れてしまった脱力の吐息だったかもしれませんでした。

瞬王子がその吐息をすべて吐き終える前に突然、空の月と海に映る月以外明かりのない夜の海岸に、聞き覚えのある声が降ってきます。
「仮にも一国の王子が、こんな時刻に供も連れずにこんな場所を散歩しているのか?」
息が止まるほど驚いた瞬王子が、声のした方を振り返ると、そこには氷河王子が立っていました。
傍らには、夜の闇に溶けてしまいそうな黒い身体の馬がいます。

瞬王子は本当にとても驚いたのですが、努めて冷静を装って、氷河王子に尋ね返しました。
「氷河王子こそ」
「その『氷河王子』というのはやめろ。『氷河』でいい。せっかく いい情報を教えてやったのに、おまえが動く気配がないから、せめて俺が横流しの邪魔をしてやろうと思って来たんだが……」
ぼやくようにそう告げる氷河王子の言葉は、正義感の強い王子様の言葉としてはとても自然なものでしたけれど――。

考えてみれば、この罠の情報を最初に瞬王子にもたらしたのは氷河王子です。
瞬王子は、彼に疑惑の目を向けないわけにはいきませんでした。
「どうやって邪魔するつもりだったの?」
「ネズミ花火と打ち上げ花火を山ほど買ってきた」
「は……花火?」
見ると、氷河王子の馬の脇には大きな袋が一つぶらさがっています。
それが、どうやら氷河王子が大量購入した花火のようでした。
いったい、氷河王子はその花火をどうするもりだったのか――。
ネズミ花火に追いかけられたり、打ち上げ花火が撒き散らす火花や煙にあたふたする悪者たちの様子を想像して、瞬王子は思わずぷっと吹き出してしまったのです。

氷河王子は、自分の計画が人の笑いをとるようなものだとは思っていなかったのかもしれません。
瞬王子が吹き出す様を見て、彼は少し臍を曲げたような顔になりました。
「たった今、馬鹿でかい派手なリボンをつけた男を乗せた馬が、俺の目の前を走り抜けていったんだが、あれは何者だ。あの馬には見覚えがあるぞ。おまえの厩舎で見た」

氷河王子の作戦を笑って聞いていた瞬王子の顔が、ぎくりと強張ります。
どうやら氷河王子は、ユニークな発想の持ち主であると同時に、観察眼に恵まれた王子様でもあるようでした。
瞬王子は、リボンの騎士の乗る馬にも覆面をさせていたのですが、人は馬を見る時、顔よりも体つきを見ますからね。
言い逃れはできそうにありません。
瞬王子は、慌てて、適当な言い訳を捏造しました。

「と……友だちなの。見逃して。僕は仮にもこの国の王子で、この悪事の黒幕の大臣は、僕の大伯父に当たる人なんだ。だから、大っぴらには動けなくて――。それに、その……僕は、剣もあんまりうまく使えないし、馬を速く駆けさせることのできないし、でも、悪いことは止めなきゃならないでしょう? そうしたら彼が僕の代わりを買って出てくれて、それで――」
それは決して嘘ではありません。
それは大筋のところで事実だったのですが、瞬王子は氷河王子を騙しているようで、少々 気が引けました。
でも、リボンの騎士の正体は――できれば、瞬王子は、誰にも永遠に秘密にしておきたかったのです。
誰にとってもその方がいいと、瞬王子は考えていました。

「友だち? まあ、おまえの友だちなら、悪い奴ではないんだろうが……。見なかったことにすればいいのか?」
「うん。ありがとう」
氷河王子は、意外にあっさりと、瞬王子の願いを聞き入れてくれました。
瞬王子は、ほっと安堵の胸を撫でおろしたのです。

考えてみれば、ゴールドランドはとても豊かな国。
氷河王子は、その国の王子様です。
麦の横流しで小銭を儲けるなんて せこい悪事に加担したところで、名誉が傷付くことはあっても、得をすることはありません。
彼が欲深大臣の仲間なのではないかという疑いを、瞬王子は捨てることにしました。
ネズミ花火で悪者を退治するなんてユーモアを、あの欲深大臣にくみする者が思いつくとは思えなかったのです。

「城に帰るのか?」
「うん」
「歩いて?」
「馬は、リボンの騎士に貸しちゃったから」
「リボンの騎士? それはまた、実に愉快なネーミングだな」
氷河王子が『リボンの騎士』を小馬鹿にしたような薄い笑みを浮かべます。
それは、瞬王子と氷河王子が初めて会った時、瞬王子を 女の子より綺麗だと言った時に彼が作った笑みに酷似した笑い方でした。
もしかしたら そういう笑い方をするのは氷河王子の癖で、そんなふうに笑うときも氷河王子に悪意は全くないのかもしれないと、瞬王子は思ったのです。
瞬王子は、もともと人の悪意よりは善意の方を信じる人間――信じたい人間――でしたから、今はそう思ってしまうことにしました。

「まあ、いい。乗れ」
「え?」
黒馬の背に飛び乗った氷河王子が、馬の上から瞬王子に左の手を差し延べてきます。
目の前に出現した彼の手に、瞬王子はどぎまぎすることになりました。
「せっかく悪党退治をしに来たのに、悪党共はみんなリボンの騎士とやらを追いかけていってしまった。俺も帰ることにしよう」
瞬王子の前に差し延べられている氷河王子の手。
彼はその手を引っ込めようとはしません。
人の厚意をむげにできない瞬王子が恐る恐るその手に自分の手を重ねると、氷河王子は瞬王子の手を力を込めて掴み、そのまま瞬王子の身体を彼の馬の背に引き上げてしまいました。

「う……馬に二人乗りなんてできるんだ。二人も乗って、この馬、ちゃんと走れるの?」
「おまえは軽いからな。大丈夫だろう。ちゃんと掴まってろ。飛ばすぞ」
「うん……わっ!」
言うなり、氷河王子が馬の脇腹を蹴り、闇の色をした馬がものすごい勢いで夜の港の道を走り出します。
瞬王子は、慌てて氷河王子の胸にしがみつくことになりました。
瞬王子は氷河王子の愛馬の背に乗っただけで、まだちゃんと跨っていなかったのです。
横乗りなんて女の子のようなことをするのは――させられるのは――、本音を言えば、瞬王子には少々不本意なことでした。
でも、風を切って走るのは気持ちよかったですし、氷河王子の胸は温かくて、瞬王子のそんな不満はすぐに消し飛んでしまったのです。

『おまえの友だちなら、悪い奴ではないんだろうが……』
氷河王子の胸の中で、瞬王子は氷河王子の言葉を思い出していました。
おそらく氷河王子は あまり深く考えることをせずにそんなことを言ったのでしょうが――。
人を信じられるということは嬉しいことです。
そして、人に信じてもらえるということは、もっと嬉しいこと。
瞬王子は氷河王子の胸の中でとても幸せな気持ちを味わっていました。
このままずっと二人で駆けていられたらいいのにと、瞬王子は そう思っていたのです。






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