「氷河……。あの……」 翌日、瞬王子は、氷河王子の部屋に行って、恐る恐る話を切り出しました。 いつまでも今のままの自分でいたい。今の自分と違う自分になどなりたくない。 そう訴える心を、懸命に抑えつけて。 「もし、僕に――あの……神様の手違いで、もし僕に男の子の心と女の子の心が与えられているとして、そのどちらかを返さなきゃならないとしたら、氷河はどっちを返した方がいいと思う?」 瞬王子は神様の存在を信じていましたし、天使や妖精の存在も信じていました。 でも人は、そんなものの存在を信じていなくても生きていられるものですし、どちらかというと現実的な生き方をしている人は、そういうものの存在を信じたがらないもの。 神様の手違いで 2つの心を持っている人間がいるなんて話は、氷河王子には突拍子のない話に思えるに違いありません。 氷河王子はきっと笑うだろうと――少なくとも、奇妙な面持ちにはなるだろうと、瞬王子は思っていました。 が、瞬王子のその話を聞かされても、氷河王子は笑ったりしませんでした。 笑うどころか、とても真剣な面持ちになって、氷河王子は、あの真夏の空の色をした瞳でじっと瞬王子を見詰め、それからゆっくりと口を開いたのです。とてもとても重々しい様子で。 「俺には、絵梨衣という名の妹がいる」 「妹さん?」 氷河王子と初めて会った日、氷河王子にはお人形のように綺麗な妹姫がいると侍女たちが話していたことを、瞬王子は思い出しました。 確か、その妹君のせいもあって、氷河王子の母君は魔女と噂されるようになったのだと。 「そうだ。神が心を入れ忘れたらしくて、絵梨衣はこの15年間、人形のように生きてきた」 「え……」 まさか、そんなことが――。 氷河王子のその言葉を聞くや、瞬王子の心は冷たく凍りついてしまいました。 男の子の心も女の子の心も、です。 「俺の母は、必ず絵梨衣の心を探し出してくれと、俺に言い残して死んでいった」 「あ……」 では、瞬王子が持っている2つの心のうちの1つは、本当は絵梨衣姫――氷河王子の妹姫のものだったのです。 「俺は、妹のものだったはずの心を探すために、この国に来たんだ。生まれてから一度も口をきいたことのない絵梨衣が、ある日突然、俺と父の前で『シルバーランドに私の心がある』と言ったから。俺がこの国に来る1週間ほど前のことだ」 「ぼ……僕……」 絵梨衣姫にそう言わせたのは、おそらく星矢のいたずらに気付いた神様だったのでしょう。 神様は、星矢だけに任せておくのは危険だと、危惧していたのかもしれません。 では、返さなければなりません。 返さなければならないのです。 瞬王子は、なぜだかひどく泣きたい気持ちになって、実際に瞳を涙で潤ませて、氷河王子に言ったのです。 「僕……あのね。僕、ちょっとだけ――ちょっとだけ、氷河のことが好きみたいなんだ。あの、そんなに特別な意味じゃないよ。氷河が亜麻色の髪の女の子を好きだったことは知ってる。そういう意味じゃなくて、でも、ちょっと好きで、それって、もしかしたら、僕の中に女の子の心があるせいなんじゃないかと思うんだ。僕、氷河のこと、嫌いになりたくない……」 氷河王子の青い瞳に映っている瞬王子の顔は、女の子より可愛らしいと誰もが口を揃えて言うあの顔。 けれども、瞬王子の心の中には、兄君のように男らしい王子様になりたいという気持ちが確かにあって――瞬王子は、いつも中途半端な王子様でした。 瞬王子は自分のことを、いつもそんなふうに感じていました。 『僕は中途半端な人間なのだ』と。 そんな自分に もどかしさを感じながら、それでも瞬王子は、自分が今の自分と違う自分になることがとても恐かったのです。 「氷河は、僕が男のままでいるのと、女の子になるのと、どっちの方がいいと思う?」 無言で瞬王子を見詰めている氷河王子に、瞬王子は思い切って尋ねてみました。 「俺はどっちでも構わないぞ」 氷河王子が即答します。 瞬王子には悩んでも悩んでも答えの出なかった難しい問題。 氷河王子には、でも、それは大した問題ではなかったのでしょう。 「そうだよね……。氷河にはどっちでもいいことだよね」 瞬王子が王子だろうが王女だろうが、それは氷河王子には何の関わりもないことです。 氷河王子の答えは、ある意味では、瞬王子の自由意志を尊重する、とても寛大な答えだったでしょう。 妹姫のことを思えば、彼は、『女の子の心を返せ』と瞬王子に迫りたかったはずなのですから。 それでも、瞬王子は、悩んだ様子も迷った様子もない――それどころか考えた様子もない氷河王子の答えに落胆せずにはいられなかったのです。 「ああ、どっちでもいいな。俺が好きになったのは、男のおまえでも女のおまえでもなく、この綺麗な目をしたおまえだから」 瞬王子の姿を映している氷河王子の瞳は、当然のことながら瞬王子を見詰めています。 その瞳はとても優しげで、深い色をしていて、氷河王子は“どうでもいいことだから”『どっちでもいい』と答えたようには見えませんでした。 「え……? す……好き……って」 『氷河王子が瞬王子を好き』というのは、いったいどういうこと――どういう意味なのでしょう。 それは、秘密を共有する友だちとしての『好き』なのでしょうか。 おそらくそうなのだろうとは思いましたが、それでも氷河王子に『好き』と言われて、瞬王子の“心”はときめきました。 氷河王子の言葉や眼差しにときめいたりするのはおかしい、それは不自然なことだと思うのに、瞬王子の心のときめきは止められません。 止めることはできませんでした。 氷河王子は、そんな瞬王子を、あの青い瞳でじっと見詰めています。 夏の真っ青な空の色のようだと思っていた氷河王子の瞳が、今は深い海の色をしているように、瞬王子には思えました。 「俺のマーマを庇ってくれたろう。初めて会った日だ。絵梨衣があんなふうなせいで、俺のマーマは、心ない奴等から魔女と噂され、ずっと責任を感じて苦しんでいた。俺は 早く妹の心を探さなくてはと焦っていたのに、団子鼻大臣はつまらないことを話し続けて俺を解放してくれないし――あの時、俺はひどく気が立っていたんだ。おまえにも考えなしのひどいことを言ったばかりだった。なのに、おまえはマーマを庇ってくれた。俺におまえを好きになるなと言う方が無理な話だろう?」 氷河王子は何を言っているのか――。 瞬王子は頭の中がぐるぐるして、何が何だかわからなくなってしまったのです。 そんなことがあるはずはない――あるはずがないではありませんか。 「す……好きって、氷河が好きなのは――あの時 氷河が好きになったのは、亜麻色の髪の白いドレスの女の子でしょう?」 「だから、おまえだ」 それはとても大事なことなのに、氷河王子はやっぱり とてもあっさりと、まるで逡巡した様子もなく言いました。 『 氷河王子は気付いていたのでしょうか。 亜麻色の髪の乙女の本当の髪の色と、本当の心に。 いったい、いつから。 そして、どうして? |