あの舟に乗っている二人は誰。
互いの他に頼るものすらないように、世界には二人の他には誰も存在しないというように、心細そうに寄り添っている二人は――。

その夜、訪れた夢の中で、いつも眺めているだけの二人が何者なのかを見極めようという気持ちが瞬の中に生まれてきたのは、赤い花の咲く島に行けば何かがわかるかもしれないという期待が、瞬の心に作用したせいだったのかもしれない。
これまで遠くから眺めることしかせずにいた二人に、瞬は初めて 強い意思を伴った視線と意識を向けた。

――小宇宙を感じた。
だが、それは瞬の小宇宙ではなかった。
氷河の――白鳥座の聖闘士の小宇宙に似ている。
そして、瞬に感じられる小宇宙は一つだけだった。

では、あれは氷河と――自分ではない誰かなのだろうか。
だから自分は いつも傍観者として二人を眺めていることしかできなかったのだろうか。
その考えは、瞬にはあまり楽しいものではないはずだった。
だというのに、瞬はその事実に妬心や理不尽を覚えることはなく――むしろ瞬の心には 切ない悲しさだけが募ってきたのである。
小宇宙を感じさせない舟上の人物の正体を見極めようとして、瞬は一層 目を凝らした。――その時。

その時、瞬の頬に何かが触れた。
温かく、優しく、気遣わしげな感触。
その感触が、瞬を夢の世界から現実の世界へと引き戻してしまったのである。
その温かいものは、氷河の指だった。
どうやら彼は、夢を見ながら泣いていた瞬の涙を拭おうとしてくれていたらしい。
瞬の覚醒に気付くと、氷河はその指と同じ感触の声で、瞬に尋ねてきた。

「おまえにこんなに涙を流させるなんて、どんな夢なんだ。悲しい夢なのか? 以前から見ていたわけではないようだな」
「あ……」
声だけではなく、瞬の顔を覗き込んでくる眼差しまでが、氷河は気遣わしげである。
「俺と寝るようになってから見るようになっていたのか」
「僕……」
その通りだったのだが、瞬は、絶対にそれを氷河のせいにはしたくなかった。
意識して甘えるような仕草で、瞬はその指を氷河の裸の胸に伸ばし、触れていった。

「僕……幸せすぎて恐くなってるのかもしれない。僕は平和とか幸せとかに慣れてないから。こんなに穏やかに誰かに恋してられる日がくるなんて思ってなかったから」
それは事実だった――決して嘘ではなかった。
たった今、思いついた言い訳ではあったけれど。

「僕はこれまでたくさんの人を傷付けてきたのに、その僕がこんなに幸せでいていいのかって、罪の意識もあるのかもしれない……」
「罪?」
それまで ひたすら気遣わしげだった氷河の瞳に、“罪”などという言葉を持ち出してきた瞬の真意を探ろうとする光が浮かびあがってくる。

これまで多くの敵を傷付けてきた人間が幸福になることを、彼の恋人が本当に罪だと考えているのなら、『もちろんそれは罪ではない』と、氷河は即座に断言してくれるだろう――。
瞬にはそれがわかっていた。
氷河は、彼の恋人が本当は別の“罪”を気に病んでいるのではないかどうかを見極めようとしているのだということも、瞬にはわかっていた。
たとえば、自分たちが同性同士であること――を。

氷河の懸念はわかっていたのだが、瞬自身には、彼の懸念が的を射たものなのか そうではないのかということすら判断できていなかったのである。
自分はその事実に罪悪感を抱いているのかもしれないと思わないでもない。
だが、瞬の中で、その罪への恐れは、氷河と共にいたいという気持ちほどには強いものではなかった。
そんな罪の意識が、(もしあったとしても)あの夢の原因だとは、瞬には思えなかった。

「キリスト教には原罪って考え方があるでしょ。神様に禁じられていた知恵の実を食べて、人間は羞恥心を知って――。その……こういうことするのって、キリスト教では罪なの?」
「原罪というのは、個人の責任の及ばないもの、人間が生まれながらにして負っている罪のことだ。原罪はアダムとエヴァの姦淫のことじゃない。俺は、人間が負っている原罪というのは、人間が他者の命を食らわずには生きていけない存在だということだと思っている」
「それは……個人ではどうしようもない、悲しい罪だね」

ならば、自分を愛し求めてくれる人を 愛し求めずにはいられないということも、個人ではどうすることもできない悲しい罪である。
それは、人間が生きていくために犯さざるを得ない、“必要な”罪なのだ。
誰もが犯さざるを得ない罪。
だが、その罪を犯した者すべてが、あんな夢を見るわけではないだろう。
となれば、自分があの夢を見るようになった原因は、氷河と“罪”を犯したからではないということになる。
きっかけではあったかもしれないが、原因ではない。

その結論に至ると、瞬は心を安んじた。
あの夢を見るようになった原因は、他にあるのだ。
そう確信して、瞬は、今度は意識せずに氷河に甘え、彼にキスをねだっていったのである。
サービス過剰気味な氷河は、キスだけで その場を収めてはくれなかったが。






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