「そんな、 見苦しい男たちの舌戦に眉をひそめ、氷河にアテナ神殿からの辞去を命じたアテナの判断は適切なものだったろう。 あのまま氷河がアテナ神殿にいたら、彼はアテナの目の前で、かつての敵と同志を相手に取っ組み合いの大喧嘩を始めてしまっていたかもしれなかった。 教皇の間のある建物の一角にある青銅聖闘士たちのための部屋は、そろそろ夜の ハーデスは、黄泉の国の住人を黄昏時に生者の国に送り返してきたのだ。 ハーデスの意を それはさておき、『アンドロメダ座の聖闘士を白鳥座の聖闘士から奪っても、略奪者たちには何の益もない』という瞬の見解に、氷河は大いに異論があった。 瞬に巡り会えたこと、瞬の好意を得たことを、氷河は、自分の人生の最大の果報にして実りと信じていた。 そういう氷河には、瞬と共に在ること、瞬と共に生きていられることは、まさに“益”――それこそが自分がこの世に生を受けたことの意義と思えるほどの“益”だったのだ。 瞬は自分の価値を正しく把握しておらず、また、その自覚のなさゆえに危機感に欠けている。 瞬に危機感を持たせるために、氷河は そのあたりのことをこんこんと瞬に教え諭してやろうと思ったのだが、あいにく彼はそうすることができなかった。 瞬の瞳が切なげに曇っていることに気付いてしまったせいで。 それは決して 太陽が沈んだ空のせいではなかった。 「瞬、どうした」 「あ……うん……」 瞬は、力のない呟きのような声を洩らして、肩を落とした。 ギガントマキア――。 あの戦いは、聖闘士として最も戦いにくい戦いだった。 それは、正義のない戦い。 ギガスたちは、あの戦いを“生存競争”だと言っていた。 キガスと人間による、種の生き残りをかけた、必然ではあるが、意義を求めることに意味のない戦いなのだと。 彼等の首魁である邪神テュポンは、髪の毛座コーマの盟によって封じられ、結果的にギガスたちは彼等の言う生存競争に敗れた。 この世界に生き残ったのは、ギガスたちではなく聖闘士――人間たちだった。 だが、瞬には あの戦いを、二酸化炭素の濃度上昇によって起こったシアノバクテリアの大増殖や恐竜の絶滅のような自然史上のことと捉えることは、到底できなかった。 ギガスたちとて、生きたかったはずなのだ。 彼等が自分たちの命を事もなげにテュポンに差し出したのは、己れの命をあの恐怖神に託すことで自らが生き延びるためだった。 死への恐怖すら抱けないほどに――彼等は、何よりも生を望み、生を求めていた。 彼等は、生きるために戦ったはずなのだ。 そんなギガスたちを、聖闘士は――人間は――滅ぼした。 「生きものは――自分が生き残るためなら、その妨げになるものを滅ぼしてしまっても罪にはならないのかな……」 瞬が、暗い表情で、溜め息のように呟く。 瞬はどうやら、自分が“見栄えのする男たち”の魅力に征服される可能性など考えてもいないらしい。 瞬の心は、全く別のことを憂えているようだった。 氷河はつい気が抜けてしまったのである。 だが、彼はすぐに我が身に活を入れた。 瞬が瞬の恋人に安らぎを与えてくれるように、瞬の恋人もまた、瞬の心の平安を守るために努めなければならない。 己れの重要な義務を思い出し、氷河は念頭から あの不愉快な男たちの姿を急いで消し去った。 「“罪”を定めるものを法と前提するのなら――人間の世界では、自己保存のため、自分の命を守るためになら、それが人間であれ人間でないものであれ、他者の命を奪うことは罪にはならないな。少なくとも日本国の刑法には、『人を殺すな』とはどこにも書かれていない。まあ、法律というものは、共同社会の秩序を守るための約束ごとが記されているだけのもので、実のところ正義を著したものではないから、それも当然のことなんだが」 「法に正義はない……?」 「他者の命を奪うことを許すと書かれているわけではないがな。もちろん奨励されているわけでもない。正当な理由なく、他人の生存権を奪ったら罰せられるだけで」 「罰せられないなら、人は人を殺してもいいの?」 「人間の社会ではそういうことになっているな。人間の社会では、自分が生き残るためなら、その妨げになるものを滅ぼしてしまっても罪にはならない。それは正当防衛になる」 「……」 瞬が『ギガスを滅ぼした聖闘士たちの行為は正しかった』という言葉を求めているのではないことは、氷河とてわかっていたのだが、彼には他に言いようがなかった。 『聖闘士たちの行為は間違っていた』という結論を瞬に提示することは、瞬を含むアテナの聖闘士たちの存在そのものを否定する言葉になってしまう。 それはできない――それは、言ってはならない言葉だった。 「善も悪も推奨しないのが法だ。『善を為せ』『悪を為すな』と積極的に推奨するのは、宗教の分野だろう。だから、信じる神を選び間違えると大変なことになる――ギガスたちのように」 「僕たちは選び間違えていない?」 「おそらく。アテナは、俺たちに『敵を滅ぼせ』と命じたことはないだろう?」 「うん……」 アテナはギガスたちを滅ぼすことを正義とはせず、滅ぼした聖闘士たちの行為を罪として糾弾することもしなかった。 ただ、その結末を深く悲しんだだけで。 自分は信じる神を選び間違えてはいない――。 そう思えるだけでも、瞬は心を安んじさせることができたらしい。 瞬が、強張らせていた身体から力を抜く。 氷河は胸中で安堵の息を洩らし、その手を瞬の頬に伸ばしていった。 「そして、『美を愛せ』は芸術の分野。『善を愛せ』『真実を愛せ』は哲学の分野だな」 今 自分の手が触れているものが それらすべてを備えたものだと、氷河は信じていた。 自分がそう感じ、そう信じていることを 瞬に認めさせるために、氷河はこれまで尋常でない労力を費やしてきた。 「恋が 美や善を求める気持ちから生じるものだとして――氷河は芸術家や哲学者なの」 美であり善であるものの頬に触れる手を、瞬に振り払われてしまわないようになるために、どれだけの時間を費やしてきたか。 今更 それを他の男に奪われるなど、氷河には絶対に受け入れられない事態だった。 「俺が身を置くのは自然科学の分野だ。俺が生きていくのには おまえが必要で、自分が生きるため、自分が生きていたいから、俺はおまえを求める。俺の中から自然に湧き起こってくる衝動と欲望と おまえの幸福を願う気持ちが俺を作っていて――つまり、俺はただの人間ということだな」 「ただの……人間?」 氷河の告げた言葉を繰り返す瞬の瞳は熱に潤み、うっとりと氷河を見上げ見詰めている。 氷河は、瞬の肩を抱きしめた。 「だが、まあ、ああいう輩がでばってくると、俺も心穏やかではいられないから、今夜はぜひ俺に、おまえが俺を好きでいてくれることを確かめさせてほしい」 「僕を信じてないの」 「信じていなかったら、おまえと寝る前に、俺は奴等を殺しに行っている」 どうせ一度は その生を終えた者たちである。 氷河は半ば以上本気でそう言ったのだが、瞬はそれを睦言に類するものと受け取ったらしい。 「そんな恐い冗談 言わないで」 囁くようにそう言うと、瞬はその細い腕を氷河の背に絡めてきた。 |