アテナは、ニコルとトアスに聖域への滞在を許したらしい。
アテナの許可を得た二人は、翌日から――翌日も――その宣言通りに瞬につきまとい始めた。
瞬は彼等を嫌ったり疎んじたりすることはなかったのだが、それでも彼等が公言してはばからない彼等の“目的”は、瞬にとって迷惑以外の何物でもなかったのである。
『恋人を信じていること』と『恋人につきまとう男たちが気に入らないこと』は、氷河にとっては全く別個の事柄であるらしく、ニコルやトアスに出会うたびに氷河の瞳に苛立ちの影が差すことが、瞬の胸に困惑を運んでくるのだった。

「いったいどうして『氷河から僕を奪う』なんです。そんなことをしたって、あなた方には何の得もない。僕に対して、その――特別な好意を抱いているわけじゃないのなら、あなた方にだって、こんなゲームは詰まらないもののはずでしょう!」
彼等が別の目的でここにいるのなら、その目的を達成させるために協力したいとも思う。
だが、彼等が口にする“目的”は、瞬には迷惑以外の何物でもなく、何より理解し難いものだった。
ニコルとトアスは、だが、瞬の被る迷惑を全く意に介してくれないのだ。

ほとんど懇願めいた瞬の言葉に、トアスは、
「君が若く美しい――というだけでは理由にならないか。君に対して好意を感じない人間がいたとしたら、その人物はかなり鈍感な人間だぞ」
と言い、ニコルは、
「君は聡明で強く可愛い。善良でもある。君に好意を抱かないことは、善を拒否することだと思うが」
と答えてくる。
その上、二人がかりで、
「これは大義もなく、正義もない、ただ君の心を手に入れた者だけが生き残る戦いなんだ。言ってみれば、このゲームは第二次ギガントマキアなんだよ」
などという ふざけた見解をさえ、彼等は堂々と瞬に披露してくれたのだ。

若く美しいものを愛さないことは罪であり、善良な人間に好意を抱けないこともまた罪である。
それが彼等の考えであるらしい。
自分が生きるためにそれが必要だからという、抑え難い情熱に突き動かされている氷河とは違う考えを、彼等は彼等の行動の指針にしているのだ。
「おふたりは――芸術家で哲学者なんですね」
「?」
彼等の言動が迷惑なことに変わりはないが、彼等のそういう考え方は瞬を安堵させるものだった。

「それはどういう意味だ?」
尋ね返してくる二人に曖昧な笑みを向けて、瞬は彼等の“冗談”に適当に・・・付き合うことを決意したのである。
彼等も、いずれはこの馬鹿げた茶番に至った本当の理由を打ち明けてくれるに違いない。
瞬は、その時の来ることを信じることにした。

瞬はそれでよかったのだが。
瞬の恋人の方は、それでは全く収まりがつかなかったのである。
氷河としても、ニコルがわざわざ瞬の恋人のいるところで 瞬を観劇に誘い、
「氷河。君には下品な喜劇のチケットを用意した。ぜひ星矢と一緒に行ってきたまえ」
と嫌味たらしく言ってくるあたりまでは まだ想定内のことだった。
だが、金剛衣どころか黒の長衣さえ脱ぎ捨てて白いYシャツとデニムのパンツを身に着けたトアスが、長い黒髪をなびかせて、
「アンドロメダ、コルフ島にタコを食いに行こう! アテナに頼んでケルキラのホテルにダブルの部屋をとってもらった。アテナは実に粋で太っ腹な女神だな。最初から彼女の側についていればよかったぞ」
などと軽薄なセリフを吐いてくる事態は、さすがの氷河にも完全に想定外のことだったのだ。
何より、なぜタコなのかがわからない。

彼等のわざとらしい瞬へのアプローチに出会うたび怒り心頭に発した氷河は、完全に絶対零度に達した凍気を能天気な男たちに手加減なしでぶつけていったのだが、さすがは聖域の元教皇代理と破壊神テュポンの兄であった者――あるいは一度は死を通り過ぎた男たちと言うべきなのかもしれないが――氷河の攻撃は彼等に対してダメージらしいダメージを与えることすらできなかったのである。
氷河の怒りの炎の勢いが 彼自身の生む凍気を上まわり、そのために彼の攻撃の力が相殺されてしまっていることも考えられたが、結局のところ、氷河の攻撃の無効の真の理由は、瞬がそれを望んでいないから――だったろう。

氷河はもちろん本気で、図々しい男たちに腹を立てていた。
しかし、瞬は彼等が傷付くことを望んではいない。
万一、氷雪の聖闘士が彼等を傷付けるようなことになってしまったら、瞬が悲しむことが氷河には わかっていたので――結果的に氷河の凍気は彼自身のストレス発散の手段として放たれるしかなかったのだ。

『キグナスをぎゃふんと言わせることができなければ、我々は死の国に戻らなければならないのだ』
は、瞬に対する立派な脅し文句――脅迫だった。
生きていたいのだと訴える二人に瞬は冷たくできず、氷河の不機嫌は時を追うにつれ、深く激しくなっていくばかりである。
「氷河。彼等は遊びで僕を誘ってるだけなんだから」
と瞬になだめられても、
「――命をかけた遊びだ」
氷河は素直になだめられてやれなくなっていた。

「生きたいと言い張る奴等を、おまえは拒否できない。冷たく突き放すことができない。奴等はおまえの甘さにつけこんで、したい放題をしているだけだ!」
「甘さ……?」
それが聞き捨てならない言葉だったのか、それまで癇癪を起こす子供をなだめる母親のような態度で氷河に向き合っていた瞬が、僅かに眉根を寄せる。

氷河に凍気で聖域の建物を破壊する行為をやめさせてほしいというアテナの要請を受けて その場にやってきていた紫龍は、珍しく瞬ではなく氷河の意見の方に賛同した。
「まあ、確かに、それは優しさではなく甘さだろうな。彼等は瞬の気性をよく承知しているようだ」
「僕はそんなつもりで――」

どれほど自分の生に悔いがあったとしても、死者の命が生者の国に蘇ってはならない。
その自然の摂理は、瞬もわかっているもりだった。
限りある命。
二度とはない生の時間。
だからこそ人間が生きることには価値があるし、人は自らに与えられた命を懸命に生きようとする。
だからこそ人は、自らの命と他者の命を尊ぶこともできるのだ。

幾度でもやり直しのきく人生を真摯に生きようとする人間はいないだろう。
過ちを犯したら、やり直せばいいだけなのだから。
そうして悔いの残らない完璧な人生を生き終えたとして、それで人は何を得ることができるのか。
瞬は、そんな生では人は決して満足感を得ることはできない――と思っていた。
それは必然的に――当然の帰結として到達した完成でしかない。
悔いが残ることもある命と生だから、人は その悔いを真剣に悔いることもできるのだ。

「でもさー。もし本当に復活なったとしたら、黄金聖闘士亡き今、ニコルはアテナを除けば聖域の最高権力者だぞ。もう一方のトアスはギガスの最後の生き残りってことになる。その二人を手懐けておけば、色々便利かもしれないぜ。そこに、もともとおまえの下僕の氷河を加えて、ハレム作って うはうはしてればいいじゃんか」
星矢が、こちらは完全に この事態を面白がっているとしか思えない態度で、無責任な提案をしてくる。
瞬は、そのアイデアを即座に却下した。
「僕には、オトコでハレムを作って喜ぶ趣味はないよ」
「氷河は囲ってるくせに」
「だから、氷河だけでいいのっ!」

瞬のただ一人の囲われ者という身分に、氷河は異存を覚えなかったらしい。
瞬の断言で、彼の怒気は一応収まったようだった。
結局のところ、この問題は、ニコルとトアスが“生”というものをどう考えているかという、その一事によることなのだ。
あの二人以外には――たとえ瞬でも――この事態を収拾できる者はいない。
ここはやはり初心に戻って彼等の真意を探ることが、事態収拾への唯一の道だと、氷河は考え始めていた。

だから、氷河は許したのである。
瞬が彼等と二人きりで出掛けていくことを。
彼等がその真意を打ち明ける相手は、やはり瞬しかいないだろうと思ったから。






【next】