「せっかくアテナが眺めのいい部屋をとってくれたのに」 トアスは不満そうだったが、瞬はいったん着席したホテルのティーラウンジの椅子を立とうとはしなかった。 我が身に危険を感じるからではなく、氷河に馬鹿なことをさせないために。 『特別に許すから、トアスと二人で出掛けて、奴の真意を探ってこい』 と言ったのは他ならぬ氷河だったというのに、同じティーラウンジの最も出入り口に近い席に某金髪の男が陣取っていて、その男が周囲の空気を凍りつかせている。 トアスがこれみよがしに瞬の髪に手を伸ばすと、それだけでホテル内の温度は確実に2度低下した。 氷河の反応を面白がってやたらと挑発行動に出るトアスに、瞬は意識して険しい表情を作り、尋ねたのである。 「あなたは本当に自分の生を生き直したいと思っているんですか?」 「目的は意趣返しだと言ったろう」 トアスが苦笑しながら、答えてくる。 「ハーデスの? まさかテュポンを神としていたあなたが、今更ハーデスを二人目のあなたの神として選んだとも思えないんですけど」 君の推察は正しい――と言うように、トアスはゆっくりと頷いた。 長い黒髪のせいか、彼の印象は少し紫龍に似ている。 彼ご自慢の 「ハーデスの意趣返しは私自身の意趣返しでもある。私はハーデスのように、キグナスが君の清らかさを損ねたとは考えていない。シチリアで私と対峙した時、君は純粋な迷える魂だった」 少し真面目になってくれたトアスに、瞬は全身の緊張を緩め、再び緊張させることをした。 「私はキグナスを妬んでいる。彼は、さほどの力を持っているわけではなく、特に大きなことを成した人物というわけでもない。だというのに、君と一緒にいる彼が、あまりに幸福そうに見えるから――。彼は、何と言えばいいのか……そう、彼は生気に輝いている。おそらく、君をその手にしているからだ」 そう言って、彼は、ちらりと生気に輝く男に一瞥を投げた。 生気に輝く男が、すっかり据わりきった目で、そんなトアスを睨みつけている。 「氷河が輝いて見えるという あなたの感覚には、僕も大いに同感しますけど、それは僕のせいじゃありませんよ。氷河には、命を預けることにためらいを覚えないくらい信頼できる仲間がいて、アテナという絶対に信じられる神がいる。だから――」 トアスが首を横に振って、瞬の主張を遮る。 唇に感情の読み取れない薄い笑みを刻んで、トアスは、 「だが、私はペガサスには妬みを覚えない」 と言った。 「……」 瞬が返答に詰まる。 彼が星矢に妬心を抱かないことの原因は、瞬にも思いつかなかった。 そんな瞬を、トアスが目を細めて見詰める。 彼の目には、瞬もまた 輝いて見えているのかもしれなかった。 「私はね――私は、あの異形の神テュポンを、心から畏れていた。信じ崇めていたと言っていいだろう。自分自身の死よりも恐ろしいと感じられるものがあるということは、言ってみれば、信仰の一種と言っていいと思う。自らが信じる神の意に従うために生き、従わないことを罪と感じる。私には、あの恐怖そのものの神が生きる力の源だった。恐怖の神のために死ぬことが、自分の生きる意味だと感じていた。それで迷いはなかった。だが、私はその神を失った」 「あなたから あなたの神を奪った僕たちを――あなたは憎んでいるの?」 たとえそうであっても、それは当然のことだと思う。 しかし、トアスは、瞬の言葉に首肯しなかった。 「私は君たちに出会った。君たちは君たちの神を畏れてはいなかったが、死を恐れてはいた。死を恐れているというのに命をかけて戦い続ける君たちを見て、私は、人には神への畏れを力として生きるのとは異なる――私の生き方とは異なる別の生き方があるのではないかと疑ったんだ。その気持ちが生まれた時には、私の生は終わっていたが」 「トアス……さん」 トアスの死は唐突なものだった。 彼はもしかしたら、その時、自らの肉体が滅んだことを自覚することさえ できていなかったのかもしれない。 彼は、彼が畏れ信じていた神に、不意打ちのように食らわれてしまったのだ。 「私は、君たちのような生き方をしてみたいのかもしれない。それが正しい生き方でなくてもいいんだ。君のように、君の氷河のように、生気で輝き―― 一時でも幸福感を感じることができれば。そう、私は、私の本来の生を生きている時、自分を幸福だと感じたことが一度もなかった。それを味わってみたい。それで私の悔いは消えるだろう」 トアスの生は徹頭徹尾 受動的なものだった。 その命は、あの気まぐれな恐怖の神に与えられ、与えられた時と同じように唐突に奪われた。 自身の意思を持つことすら許されない。 自分の意思では何ひとつも決めることもなく――彼は、破壊神復活のプログラムに組み込まれた一つの要素にすぎなかった。 宗教的情熱のようなもの――はあったかもしれない。 神を畏れてはいたが、神による支配を恐れることはなく、神の意のままに在ることを望み――望まされていた。 彼の前にあったのは、『神のために死ぬ』というただ一つの道――他の生き方はない。 もちろん迷いもない。迷うことも、彼には許されていなかった。 だが、迷いのないことを、トアスは幸福と感じることはできなかったのだろう。 では、それは宗教とも信仰とも呼べないものなのではないか――と、瞬は思ったのである。 信仰というものは、どんな手段・教義によってであれ、人が己れの心の充足を求めるもの、幸福を求め、幸福に至る道を探るためにあるもののはずなのだ。 清貧の教義を守り抜く僧が身体を痩せ細らせ、生物としては極悪の状態にあっても、彼の心が法悦で満たされているのなら、彼を支配しているものは正しく宗教であり信仰であるだろう。 だが、トアスの神であったテュポンは、人の心を喜びではなく恐怖だけで埋め尽くした――。 「あなたは自分の意思で、自分の心で生きてみたかったの……? あなたの心が欲するもの、心から信じるもの、愛するものを見付けたかったの? 誰かに強いられるのではなく、自分自身の意思と心で――」 瞬自身、これまでの人生のすべてを自分の意思で決めることができていたわけではない。 聖闘士になったことさえ、それは瞬自身が望んだことではなかった。 それでも、最初は忌避していた聖闘士になることで、聖闘士の力を手にすることで、瞬は自由な心を手に入れた。 トアスは、“力”というのであれば、瞬以上のものを持ちながら、自由に生きることだけは許されなかった。 強くなっても――強大な力をその身に備えても――自身の生を自身の力で切り開くことが許されない。 では、トアスは彼の生をどう生きればよかったのか――。 その答えに至れないことが、瞬に涙を運んできた。 「ごめんなさい……。僕……何もしてあげられなくて」 瞬の瞳から涙がこぼれ落ちる。 ホテル内の温度は更に3度下がった。 トアスは瞬の涙に驚き――彼らしくなく、少々取り乱した。 「君に何もできないということはない。君が私のものになってくれれば、私はそれで幸福な男になることができるはず――」 「茶化さないでください……! 僕は真面目に話してるんです!」 瞳に涙をにじませた瞬に責められて、トアスはそれ以上、瞬を“茶化す”言葉を吐くことができなくなったらしい。 これ以上ホテル内の温度を下げるわけにもいかず、ゆえに、瞬をなぐさめるための行動をとることもできない。 トアスは、瞬の涙に対して、まさに手も足も出ない状態だった。 やっとふざけるのをやめてくれたトアスの前で、だから、瞬は思う存分 彼の生と悔いを嘆き悲しむことができたのである。 トアスは、悔い一つない完璧な人生を望んでいるわけではないのだ。 彼が望んでいるのは、ただ一つの幸福。 それは、それこそ一瞬だけの幸福でもいいのかもしれない。 それを手に入れるために もう一度だけ生きたいと望む彼の心を、瞬は否定することはできなかった。 彼の望みが正しいものでないことはわかっている。 自然の摂理に反していることも わかっている。 それでも瞬は、彼の望みを『間違っている』と糾弾することはできなかったのだ。 いずれにしても、瞬には何もできない。 彼の二度目の生の是非を語る以前に――瞬は彼のために何をしてやることもできないのだ。 それは、トアスが彼自身の意思と力で至らなければならない答えだった。 |