トアスと瞬のデートで、氷河は懲りてしまったのである。
結局トアスは、いつまでたっても泣きやまない瞬を、最後には氷河に返してくれたのだが――そうするしかなかったのだが――瞬を返してもらった氷河とて、他の男のために惜しげもなく涙を流し続ける瞬の様子を見せられるのは、やるせないばかりだったのだ。
「もう、奴等の真意を探るのはやめよう。知っても俺たちには何もできない」
と告げた氷河に、だが、瞬はがえんじようとはしなかった。
「何もできなくても、彼等の気持ちを知ってあげられるじゃない」
そう言い張って。

「それはそうかもしれないがな……」
トアスはもちろん、ニコルのようにプライドの高い男が、はたして他の尋常の人間たちのように、自分の真意を他人に知ってもらうことで 心がなぐさめられることがあるかどうかは疑わしい――というのが本音だったのだが、所詮 氷河は 瞬の切なげな眼差しに抗し切れる男ではなかった。


「あなたはトアスとは立場が違う。僕には、あなたが自分の生き方に悔いがあってハーデスの誘いに乗ったとは思えないんです」
瞬がニコルを誘ったのは、アテネの郊外にある野外劇場だった。
ギガスと聖闘士の戦いの端緒の場となった、あの円形劇場である。
野外なら、氷河がどれほどその小宇宙を燃やすことになっても人様に迷惑をかけることはないだろうと、瞬も一応学習したのである。

晴れた秋の日の午後。
今夜もこの劇場ではアイスキュロスの悲劇の上演が予定されているのだが、開演まではまだ間があり、周囲に人影はなかった。
瞬とニコルが立っている舞台を客席から睨みつけている氷河の姿以外には。
監視役の氷河に一瞥をくれてから、今日も黒色の長衣を身につけたニコルは、瞬に親しみやすい笑みを向けてきた。

「誰にでも悔いはある――と言ったろう。私はもう一度生きたいね。その際、この手の中に君がいてくれたら言うことはない。なにしろ君は綺麗で、善良で、少し意地を張ったような顔も可愛らしくて――。ああ、そう、私は君を心から愛しているよ、瞬」
「お願いですから、ふざけないで真面目に話してください!」
“少し意地を張ったような顔”をして、“可愛らしく”瞬が聖域の元助祭長を睨みつける。
ニコルは、そんな瞬を見て、僅かに目を細めた。
そして彼は、この意地っ張りで可愛らしい生き物は、何かもっともらしい理由を与えてやらないことには、どうあっても引いてくれそうにない――と判断したらしい。
目許に捉えどころのない微笑を浮かべたまま、彼は少し重たげに口を開いた。

「私は氷河が妬ましいのだ。彼は聖闘士だぞ。死ぬまで――ただの一時いっときも心休まる時を持てないのが聖闘士だろう。だというのに、彼は――聖闘士には許されるはずのない安らぎを手にしているように見える。おそらく君が側にいるから、彼はそうなのだ」
「……」

ニコルは責任感の強い人間だった。
彼が優しい面差しでどれほど辛辣なことを言っても、聖域に彼を非難する者がいなかったのは、聖域にいる誰もが彼の重責を承知しているからなのだと、瞬は思っていた。
他でもない瞬自身がそうだったのだ。
瞬にとっては特別に大切な仲間である星矢を彼に酷評されても、ニコルは、星矢と星矢が守ろうとしているものを守ることを第一義としている男なのだから、そう信じられるだけの人物だったから、瞬は彼の言葉を笑って受け流すことができた。

彼はいつもアテナより冷静でいること、アテナより客観的な判断を為すことを求められていた――期待されていた。
神というには あまりにも人間らしすぎるアテナ。
彼女の聖闘士や人間たちのために、自らを危険にさらすことも厭わない女神。
そんなアテナを補佐して聖域の統一を図り、聖闘士たちの戦いを指揮することが、彼に課せられた使命だった。
生前の彼には、確かに、心からくつろいでいられる時など ただの一時いっときも与えられることはなかっただろう。

だが、彼は、最後には――彼が生き延びることが聖域と世界のためになるという場面で、聖域の統率者としてではなく一人の聖闘士として、仲間を庇って死んでいった。
本来は情熱的な男だったのだろう。激情的でさえあったのかもしれない。
それを、彼は、理性と使命感とで抑えていたのだ。

それはつらいことだったろうと思う。
情熱的な人間が その情熱の発露を禁じられることは――言ってみれば、それは、氷河に『クールであれ』と求めるようなものである。
氷河はニコルほどには重大な責任を負わされる立場にはなく、たまに――頻繁に――馬脚を現しているが、ニコルの自己抑制はほぼ完璧だった。
トアスとは違った意味で、ニコルに自由は与えられていなかったのかもしれない。
しかし、トアスとは違って、ニコルのそれは、彼が自分の意思で選び決めた生き方だったはずなのだ。

「本当のことをおっしゃってください。あなたはアテナを信じ、自分の信念と正義に殉じた人です。僕をがっかりさせないでください」
決死の目をした瞬に迫られて、ニコルは沈黙した。
そうして、長い沈黙の後、ニコルは観念したように肩をすくめたのである。
「しかし、君たちが心配でならなかったのだと本当のことを言ったら、私が君たちを信じていないようではないか」
「僕たちを――心配して……?」
「君たちを信じてはいるんだ。もちろん。だが、私は根っからの心配性でね」
「ニコルさん……」

彼の命は、まさに 志半ばで断ち切られた。
彼には やり残したことが数多くあっただろう。
常の人に倍するほどの心残りが、彼の中にはあったに違いない。
おそらく彼は、誰よりも『もっと生きたい』と望んでいたはずの人だった。

彼の望みが正しいものでないことはわかっている。
自然の摂理に反していることも わかっている。
それでも瞬は、彼にもう一度生きる機会が与えられたなら――と、望んではならないことを望まずにはいられなかったのである。
だが、やはりそれは、望んではならないことなのだ。

瞬の瞳がまた潤み始める。
離れたところから、瞬とニコルの“デート”なるイベントを監視していた氷河も、もはや瞬の涙を止めることは諦めていた。

人間の生と死。
トアスとニコルの生と死。
あらゆる人間の生と死――は、どうしてここまで厳酷なものなのだろう。
生きようと思えば生きられる者が自らの命を絶つこともあるというのに、生きていたいと望む者の命ほど突然無慈悲に断ち切られるのだ。
そんな生と死を義務づけられているにも関わらず、人は皆優しい。
優しくて強い。
生きている瞬には、死んだ者たちの優しさと強さが悲しく感じられてならなかった。
そして、瞬は、己れの無力を嘆かずにはいられなかった。

「……泣かないでくれ。私は氷河をぎゃふんと言わせたいだけで――君を悲しませることは私の本意ではないんだ」
ニコルは、トアスよりは少しばかり恐れ知らずだったらしい。
彼は肩を震わせて涙する瞬の髪に手を伸ばし、そして、その髪を撫でた。
氷河がニコルを殴り倒すために瞬と彼の間に飛び込んでいかなかったのは――その衝動を抑え切ることができたのは――それもまた一つの愛の奇跡だったのかもしれない。






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