瞬に泣かれてしまった二人の男が、黄昏の薄闇の中にいた。
今は空位の教皇のための神殿の前からは、アテナ神殿を仰ぎ、十二の宮を一望することができる。
聖域は夜のとばりを その身にまとおうとしていた。
まもなく空では 降るような星たちが星座の形を描き始めるだろう。

「私は目的は果たした。欲しかった答えは手に入れた」
「瞬に泣かれて?」
ニコルが茶化すように問うた言葉に、トアスは少しばかり引きつったような笑みを口許に浮かべた。
ニコルの茶々が正鵠を射たものだっただけに、屈託なく苦笑できるようになるまでには、彼にはもう少し時間が必要なようだった。

「二度生きたいと望むほど――私は自分を貪欲な男だと思っていたのだが、その実、私が求めていたものは実にささやかなものだったらしい。アンドロメダが私のために泣いてくれていた時、私は背筋がぞくぞくするほど幸福だった。私は欲しかったものを手に入れた――と思う」
「瞬を氷河から奪い取ろうとは思わないのか。キグナスばかりがいい目を見ていることにむかつく・・・・と、君は言っていたではないか」
「アンドロメダがそれを望んでいる。アンドロメダがキグナスといることを幸福だと感じている。アンドロメダの幸福を壊し、本当にアンドロメダを泣かせるわけにはいかないだろう」

人が生き戦うことに大義はいらない、正義などいらないと断じていた男が、随分と甘ったるい言葉を吐くようになったものである。
「確かに、君は欲しかったものを手に入れたようだな」
ニコルは――トアスとは異なり屈託なく――だが、静かに微笑した。

「そう言う君は」
ささやかな幸福を手に入れた男が、聖域の統率者だった男に尋ねる。
話が自分のこととなると、ニコルの微笑は明朗なものではなくなった。
「瞬には ああ言ったが、実際は私も自分の生には後悔ばかりが残っている。いや、これは迷いと呼ぶべきものなのかな。私は別の生き方を選ぶことができたはず、私はもっと私個人が欲するものを手に入れようと努めてもよかったのではないかと……。まあ、悔いや選び損ねた人生というものは、死んでからあれこれ言っても詮無いものだが」

「君もアンドロメダに泣かれて諦めがついたか」
「大悟したと言ってほしいな」
「大悟、ね。君は本気でアンドロメダに岡惚れているのだと思っていたが」
私より君の方がよほどキグナスに“むかついて”いたはずだと皮肉るようなトアスの視線の先で、ニコルが彼の大悟のほどを語る。
「冗談めかしてではあるが、瞬に『愛している』と言うこともできたし――笑うなよ。決して口にすることのできない言葉だと思っていたんだ。あとは君と同じだな。瞬の幸福の邪魔をするわけにはいかない」
「ああ」

氷河といることが瞬の幸福なら――と考えてしまえるのは、自分たちが既に死んだ者であることを、彼等が自覚しているせいだったかもしれない。
確実な未来が彼等の手の内にあったなら、人がその境地に至ることはもっと困難なことであるのかもしれなかった。
だが、それでいったら、人は誰も――いつかは死ぬのだ。

「それにしても……アンドロメダは自分がキグナス以外の人間に惚れられる可能性というものを、全く考えたことがないんだな。あの自覚のなさは、ほとんど奇跡だ」
「あれだけ優しく聡明で美しければ、誰だって すぐに恋に落ちると思うのだが、瞬は――。よりにもよって氷河とはな。あれはとんでもないマザコンなんだぞ。瞬の優しさを貪り食うことしかできない男だと思うのに――」
「貪り食ってくれる人間がアンドロメダには必要なのかもしれないぞ。アンドロメダの優しさは無尽蔵で、次から次に際限なく生まれ出てくるもののようだ。私は、彼を殺そうとした男だというのに――」
「瞬は甘いのだ」
大悟することで、ニコルは本来の彼らしい辛辣な舌を取り戻すことになったらしい。
周囲の人間たちが彼の毒舌を許してしまうのは、彼の温和な面差しのせいではなく、彼の発言には必ず、否定しきれない真実が含まれているからなのだと、トアスは認めないわけにはいかなかった。

「いずれにしても、我々は結局、氷河をぎゃふんと言わせることはできなかったのだし」
「大人しく、死の国に帰るとするか」
「一応、君たちの女神に礼を言ってから退去すべきかな」
「アテナ……は、おそらく最初からこの結末がわかっていたのだろうな……」
「ふん。君の前でこんなことを言うのも何だが、やはり嫌な女神だ」

ニコルとトアスが死者の国に戻っていったことを瞬が知ったのは、翌日になってからのことだった。






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