氷河が、三人掛けのソファの真ん中でふんぞりかえっている。 瞬は、その右隣りで 小さくなって項垂れている。 氷河の正面には、顔を真っ赤にして、二つの拳をぶるぶると震わせ 仁王立ちになっている星矢の姿。 その日、昼下がりのラウンジに入っていった紫龍を迎えたのは、そういう構図だった。 氷河と星矢の間には、主に星矢の側から発せられる攻撃的小宇宙のせいで、ぴりぴりした空気が漂っている。 紫龍は、そうしようと思えば素知らぬ振りをすることもできたのだが――否、やはり彼には そうすることはできなかっただろう。 氷河のためでもなく、星矢のためでもなく、二人の間で縮こまり 居たたまれないような目をしている瞬のために。 「どうしたんだ」 仕方がないので、事情を尋ねてみる。 紫龍は瞬に尋ねたつもりだったのだが、紫龍のその一言を待っていたと言わんばかりの勢いで、彼の質問に答えてくれたのは――というより、氷河をなじり始めたのは――他ならぬ某天馬座の聖闘士だった。 「どーしたも、こーしたも! この色キチガイに何か言ってやってくれよ!」 一瞥した時点でわかってはいたのだが、やはり星矢は氷河に腹を立てているらしい。 そして、堂々と差別用語を口にするほど、星矢の怒りは激しいものであるらしい。 見慣れた光景ではあったし、どうせそんなことだろうと察してもいた紫龍は、星矢の激昂に さほど驚きもせず、両の肩を軽くすくませただけだった。 「氷河のその病気は、今に始まったことじゃないだろう」 「俺だって、大概のことにはもう慣れたつもりだったぜ。でも、今日のは――」 「今日はどうしたんだ」 知りたいような、知りたくないような。 微妙な逡巡に囚われつつ、再び、今度は星矢に問う。 話の流れ的に尋ねないわけにはいかなかった――というのが本当のところだったのだが、紫龍があえて尋ねなくても、星矢は彼の言いたいことを まくしたてていただろう。 「信じられるか !? 氷河の奴、真昼間から、階段の真ん中で 星矢の怒声がラウンジの中で木霊する。 紫龍は、星矢の怒りそのものより、彼の怒鳴り声が城戸邸の他の住人――主に、面白がりやの城戸邸のメイドたち――に聞こえはしないかと、まず それを心配することになったのだった。 その場で最も強く その心配に囚われてしかるべきはずの氷河が、白々しいほど表情を変えずに、星矢の怒りの無意味を説く。 「掃除の時間は過ぎていたし、あの時刻にあの階段を使う可能性があるのはおまえと紫龍くらいのものだ」 が、もちろん、星矢は氷河のそんな理屈に説き伏せられたりはしなかった。 それが『通りかかったのが氷河の仲間たちであれば無問題』なことであったなら、そもそも星矢は今 これほどまでに激昂してはいなかったのだ。 「俺たちが通る可能性があるってことはわかってたんだ? それで、あれなのかよ!」 星矢が見てしまった――見せられた――“あれ”。 それがどんなものなのか――紫龍は詳細な説明を聞かなくても、己が目で見たかのごとく明瞭にその光景を思い描くことができた。 自室に行くために階段を昇りかけた星矢が、階段の中央にうずくまっている氷河の姿に気付く。 具合いでも悪いのかと心配して、星矢は階段を駆け上がるくらいのことはしただろう。 ところが次の瞬間、星矢の視界に飛び込んできたものは、体調不良に苦しむ氷河の苦悶の顔ではなく、氷河の背中越しに揺れる瞬の白いふくらはぎ だったのだ。 瞬ではなくアテナの身体がハーデスに乗っ取られるようなことがあったとしても、これほど驚きはしないだろうと断言できるほどの衝撃に、星矢は襲われたに違いない。 尋常でない怒りのためにうまい言葉が出てこないらしい星矢が、自分の代わりに 彼のもう一人の仲間が氷河を糾弾することを期待している視線を、紫龍に向けてくる。 龍座の聖闘士が ここで天馬座の聖闘士の期待に応えて“氷河に何か言って”やらなければ、星矢は怒りを喉に詰まらせて悶死してしまうだろう。 そう考えた紫龍は、“氷河に何か言って”やることにした。 とりあえず、彼が考えたことを正直に。かつ、忌憚なく。 「階段というのは――さすがに やりにくいだろう」 「そうでもない」 「そーゆー問題じゃないんだよ!」 紫龍はいったい何を言っているのかと、星矢が憤慨したのは、この場合 無理からぬことだったろう。 そんな星矢を見て、これ以上 星矢の血圧を上げるわけにはいかないと、瞬は判断したらしい。 「ごめんね、星矢。ごめんなさい」 それまで氷河の隣りで身体を小さく縮こまらせているばかりだった瞬が、少しでも仲間の怒りを和らげようと、星矢に平謝りに謝ってくる。 だが、そんなことでは、星矢の怒りは治まらなかった。 瞬の謝罪は むしろ、ますます星矢の怒りを大きく激しく燃えあがらせるのに役立っただけだった。 星矢が今 腹を立てている相手は、瞬ではなく、瞬の隣りで悪びれもせず 偉そうに脚を組み ソファにふんぞりかえっている男の方だったのだ。 「なんで瞬が謝るんだよ! おまえが氷河を誘ったわけじゃないだろ!」 「それはそうだけど……」 「だいたい氷河は助平が過ぎるんだよ。冥界での戦いからこっち、特にひどくなりやがった!」 「それは氷河のせいじゃないよ。僕が冥界で馬鹿なことしたから……。氷河は僕が生きていることを確かめられるのが嬉しいんだって。だから、あの……僕、氷河に強いこと言えなくて……」 「そんなの、後付けで捏造した言い訳だろ。氷河はただの助平なんだよ!」 「そ……そんなことないよ……!」 誰よりも氷河の性欲過剰と性交過多の事実を知っているはずの瞬が、星矢の見解を否定する。 その判断の根拠を、星矢に告げていいのかどうかを、瞬は一瞬迷ったようだった。 ちらりと氷河を上目使いに見詰めてから、瞬は、氷河を弁護するために、あえてその根拠を口にすることにした――おそらく。 「氷河は、冥界で、僕が兄さんだけをジュデッカに呼んだのが気に入らないらしくて、それで――」 「呼びつけたのはハーデスだろ!」 「それはそうなんだけど……」 瞬と話していても埒が明かない。 瞬は氷河に振り回されてるだけなのだと、星矢は頭から決めつけていたし、事実もその通りだったろう――おそらく。 星矢は再び氷河に向き直り、白鳥座の聖闘士を怒鳴りつけた。 「おまえも、意味のない焼きもちなんか焼くなよ!」 「ふん。日頃、偉そうなことを言っていたわりに、結局 瞬を殺せなかった惰弱野郎ごときに誰が焼きもちなんか焼くか」 氷河はあくまでも自らの非を認めるつもりはないらしい。 それどころか、瞬が告げた彼の非行(?)の原因を認めるつもりもないようだった。 「んなこと言うけど、なら、おまえなら瞬を殺せたのかよ!」 星矢が、どこまでも偉そうな態度を貫こうとしている氷河に、皮肉混じりの仮定文を投げつける。 氷河はその仮定文を軽く受け流し――もとい、彼はあっさりと星矢の提示した仮定文に 「無論」 「嘘つけ」 「地上の平和を守り、人類を存続させるためには瞬を殺すしかないとなったら、殺すぞ、俺は。当たりまえだろう。俺も瞬もアテナの聖闘士なんだ。その覚悟はできている」 「……」 淡々と、笑いもせずに氷河が言い切る。 瞬の前でそう断言できてしまうからには、氷河は本気で自分には 実際に氷河にそうすることができるのかどうかということはさておいて、彼は少なくとも、その時がきたら自分はそうするつもりではいるのだ。 氷河は瞬なしでは夜も日も明けない男――と思っていただけに、星矢は――紫龍も――瞬の前でそう言い切ることをしてのけた氷河に、少なからず驚き、そして感心したのである。 |