「こんな言い方は何だが、おまえを見直した」 感嘆の息とも溜め息ともつかぬ吐息を洩らし、同時に、“殺される”立場の瞬を多少はばかりつつ、紫龍は氷河にそう言った。 てっきり、氷河は、その時には一輝以上の醜態をさらすものと決めつけていただけに、紫龍は氷河の覚悟を賞讃しないわけにはいかなかったのである。 「俺も俺も。氷河、偉いじゃん。な、瞬?」 星矢の方は、氷河に殺される立場の瞬を気遣う素振りさえ見せなかった。 瞳を大きく見開いて、星矢は瞬に同意を求めさえした。 「うん……」 星矢に賛同を求められた瞬が 気まずそうに頷き返したのは、それが自分が殺される話だからではなく、続いて発せられる氷河の言葉を知っていたからだったらしい。 「瞬を殺して、俺も死ぬ。それだけだ」 氷河は、至って軽い口調でそう言ってのけたのだ。 氷河があっさり言ってのけた その言葉に、星矢たちが硬直する。 「そうして、瞬の命と運命を俺のものにする」 続けて そう告げた氷河の嬉しそうな顔に、星矢たちは、先程とはまた違う意味で、再び硬直する羽目に陥った。 褒めた側からこれである。 超我儘な氷河の瞬殺害理由に、星矢は大々的に その顔を歪めることになったのである。 「おまえが瞬を殺せる理由ってのはそれなのかよ! おまえ、それでもアテナの聖闘士なのか!」 「アテナの聖闘士である前に、一人の人間だ。ああ、その点では、俺は一輝に感謝しているぞ。もし奴が瞬の命を奪うことになったら、おそらく奴も瞬のあとを追っていた。そうなれば、俺だけが死ぬこともならず生き残ることになる。そして、俺は瞬と一輝の兄弟にのけものにされた事実だけを胸に、残りの人生をみじめに生きていくことになっていただろうからな」 「一輝が瞬のあとを追う……って、まさか」 氷河が確信に満ちて語る推察は、星矢には信じ難いものだった。 というより、信じたくないことだった。 だが、言われてみれば、その可能性は皆無ではない――むしろ、それは大いにあり得ることだった。 人類が弟の命の犠牲にして生き延びることは無問題にして当然のことと、それは一輝にも認めることができるだろう。 だが、一輝自身が弟の命を犠牲にして生き延びることは、鳳凰座の聖闘士には、著しく彼の美学に反することであるに違いないのだ。 「あの惰弱野郎はそうするさ。だから、奴は瞬を殺せない。そのくせ、奴は慎重で計算高い」 「慎重で計算高い? 一輝がか?」 いったい氷河は どこの“一輝さん”の話をしているのかと、星矢は疑わないわけにはいかなかったのである。 『慎重』『計算高い』――それは、一輝に最も似つかわしくない言葉の一つ――もとい、二つ――だった。 一輝がもし計算高い男だったなら、彼はそもそも自分がデスクィーン島に送られる道を選んだりはしなかっただろう。 しかし、氷河は、瞬の兄の慎重さと計算高さを信じている――確信しているようだった。 「一輝は、瞬の覚悟を正しく理解していて、その覚悟に報いるつもりだった。奴が直前で その拳を止めたのは、瞬の死によって引き起こされる事態がどんなものなのかを想定し、それは得策ではないと判断したからだ。奴は、肉親の情に負けて、瞬を殺せなかったんじゃない」 「瞬が死ぬことで引き起こされる事態……っては――」 それがどんな事態なのかが、星矢にはわからなかった。 氷河の言う その事態とは、瞬の肉体が死んでもハーデスの魂は死なず、瞬の死が結局は無駄死にになるということだろうか。 それは大いにあり得ることで、だとすれば、一輝の判断は的確にして適切だったと言わないわけにはいかない―― 一輝が計算に長けていると評しようとすれば、それも可能だろう。 だが、だとすれば、一輝を『惰弱』と断ずる氷河の評価は妥当なものではないということになる。 もちろん、『計算高い』と『惰弱』は、決して並立し得ない要素ではないが。 「瞬が死ぬということは、一輝と俺が聖闘士として使い物にならなくなるということだ。そうなったら、星矢と紫龍の肩に人類の未来がかかることになる。どう考えても、そうなれば地上の滅亡は免れ得ない。だから、奴は瞬を殺すわけにはいかなかったんだ」 仲間の力をみくびり信じていないような氷河の言い草に星矢は憤慨することになったのである。 が、氷河は、その憤りを露わにしようとした星矢の機先を制した。 「俺たちは、5人揃って初めて、奇跡に等しい力を発揮できる聖闘士たちらしいからな。それが叶わなければ、当然いずれ星矢と紫龍も瞬のあとを追うことになる。一輝は瞬に悲しまれるのが恐かったんだ。瞬を殺すことは、結果的に瞬の仲間を殺すことで、そうなれば人類も救われない。それは、瞬を悲しませる事態だろう。一輝はそれが恐かった」 「結局、それって、私情に負けたってことじゃん」 「俺はそうではないとは一言も言っていないぞ。慎重で計算高いくせに私情に負けた。だから、一輝は惰弱な男だと言っているんだ。馬鹿が私情に負けただけだったなら、そいつは“ただの馬鹿”で済むが、一輝はそうじゃない。だから、奴は一層 救い難い惰弱野郎だ」 「……」 氷河はいったい何が言いたいのか。何のために氷河はそんなことを言うのか――が、星矢にはわからなかったのである。 瞬に慕われている瞬の兄を癪に思い、一輝を貶めたいだけなのであれば、氷河はそれこそ、一輝を“ただの馬鹿”にしておけばいいだけのことではないか。 「奴の本当の気持ちはわからないし、奴も死ぬまで本心は明かさないだろうが――奴が惰弱で、おまえより甘い男だというのは事実だ」 煙に巻かれたような星矢の上に据えていた視線を瞬の上に移し、氷河が言う。 瞬は小さく首を横に振った。 「兄さんはただ優しいだけなんだ。惰弱とは違う。兄さんのことをそんなふうに言わないで。悪いのは僕なんだから。僕がハーデスの力に屈したから」 「悪いのはハーデスだろう。あの場所に、俺ではなく一輝を呼んだ奴がいちばん悪い」 そう言って瞬を見詰める氷河の眼差しからは、“いちばん悪い”ハーデスへの憤りは微塵も感じ取れなかった。 むしろ、それは、瞬の反応と瞬の心を探るような視線で、その視線を受けた瞬は、早々に観念してしまったらしい。 おざなりの嘘ごときでは、氷河の中にある疑念を消し去ることはでそうにない――と。 「あの時は――兄さん以外に僕を殺せる人はいないと思ったから……」 「やはり……」 瞬が小さな声で その事実を告げ、瞬の告白を聞いた氷河が低く呟く。 従前から、 あの時、ハーデスが一輝をジュデッカに呼び寄せたことが、そもそも理に適ったことではなかったのだ。 あの時、一輝は三巨頭と対峙していた――そのまま放っておけば、一輝は三巨頭に片付けられていたはずだった。 その一輝に、突然ハーデスが興味を抱き、わざわざジュデッカに呼び寄せる。 それはあまりに不自然ではないか。 瞬の心がハーデスに何らかの働きかけをしたのだと考えでもしない限り。 そうすることで、瞬が兄に自分の命を奪ってもらおうと考えたのでない限り。 そして、氷河は、それが気に入らない。 瞬が瞬の命に関わることで、白鳥座の聖闘士を蚊帳の外に追い払ったことにこそ、氷河は憤っているのだ――と、それくらいのことは、かろうじて星矢にもわかった。 氷河をのけ者にしようとしたことを 氷河に知られてしまった瞬が、おそらくは氷河の怒りを静め、氷河の心をなだめるために、微妙に薄い色彩の笑みを浮かべる。 「今度は氷河を呼ぶよ。氷河の方が確実に僕を殺してくれそうだから」 「それが賢明だ。俺なら確実におまえを殺せる。確実に殺してやる。クールにな」 「おい……」 物騒な会話を続ける二人の間に、星矢が脇から(恐る恐る)口を挟む。 星矢はただ、氷河の非常識な振舞いを弾劾し、その行動を改めさせたかっただけなのだ。 決して“その時”に確実に瞬を死なせる算段をしたかったわけではない。 だというのに、この展開。 放っておくと、この二人の話はどういう方向に進んでいくかわからない。 だから星矢は 二人に物申してみようとしたのだが、残念なことに、星矢にしては遠慮がちな星矢の口出しは、氷河にあっさり無視されてしまった。 「おまえを殺さず、いつか俺がクールの証明をする機会を奪わずにいてくれたのは、一輝を構成している“惰弱”というエレメントだ。奴の惰弱振りには感謝している」 「その言葉、兄さんに言ってみて。兄さん、怒り狂って、僕じゃなく氷河を殺しちゃうから」 「殺さないさ。俺が死ねば、おまえが悲しむ」 「氷河……」 「奴は甘いからな」 一輝を惰弱で甘い男と決めつけて、氷河が瞬の兄を鼻で笑う。 それだけならまだしも、氷河は、星矢の懸念した通り、とんでもない方向へと話を進めてしまった。 氷河は瞬の前で、 「だが、俺なら一輝を殺せる。地上の平和のためとか何とか もっともらしい理由をつけて、何食わぬ顔をして一輝を殺し、そして、兄の死を嘆き悲しむおまえを慰めて、心の内でこっそり舌を出すんだ」 と言ってのけた――言ってしまったのだ。 「なあ……おい……」 既に星矢は、時間や場所をわきまえない氷河の振舞いを責めるどころではなくなっていた。 瞬が切なげな目をして、姑息な計画を打ち明けてきた氷河の瞳を見詰める。 そうしてから瞬は、やがて長く深い溜め息をひとつ洩らした。 「つまり、氷河に馬鹿なことをさせないために、僕はいつも氷河の側にいて氷河を見張っていなきゃならないってことだね」 「おまえが俺以外の者の手にかかって死ぬことも許さない」 「その時には氷河を呼ぶって約束するよ」 瞬が、全面降伏の こんな調子で氷河に攻められ押し切られていたら、確かに瞬は、非常識な時刻・非常識な場所での非常識な振舞いを求める氷河に抗いきることは困難だろうと、星矢は思わないわけにはいかなかったのである。 非常に複雑な気分で。 瞬が、奇妙に歪んだ星矢の顔を認め、再び氷河の方に向き直る。 「それは約束するから――だから氷河、安心して、星矢に変なものを見せちゃったお詫びに、うさぎ屋のどら焼き買ってきてあげて」 「えっ。うさぎ屋のどら焼き?」 ふいに超魅惑的な商品名を聞かされて、つい瞳を輝かせてしまったのが星矢の敗因だったろう。 もっとも、この時点で星矢は既に、氷河の非常識を責める意欲を完全に失ってしまっていたのだが。 あからさまに星矢を小馬鹿にしたような態度と所作で、氷河は掛けていたソファから立ち上がった。 |