己れの非常識な振舞いを“悪いこと”とは思っていないにしても、氷河はもしかしたら、その非常識な場面に遭遇してしまった星矢に対して『悪いことをしてしまった』くらいのことは思っていたのかもしれない。
彼は、驚くほど素直に、“うさぎ屋のどら焼き”購入のためにラウンジを出ていった。
星矢が その頃になってやっと、自分が立ちっぱなしで氷河に対峙していたことを思い出す。
瞬が掛けている長椅子の向かい側の肘掛け椅子に、星矢は緊張の糸が切れた人形のように、どさりと我が身を投げ出した。
瞬が、そんな星矢に申し訳なさそうな目を向けてくる。
最初から瞬を責める気はなかった星矢は、瞬のその眼差しには気付かぬ振りをした。

「瞬、いいのか。氷河の奴、目がまじだったぞ。あいつ、いつか ほんとに一輝を殺しかねない」
「あ……それは大丈夫。氷河は、兄さんを殺したりなんかしないよ」
星矢の懸念がその件に向いていることを知って、瞬は安堵したらしい。
ごく軽い口調で、至極あっさりと、瞬は星矢の懸念を否定した。
「なんでそう言い切れるんだよ?」
「兄さんを殺せるって、僕に言っちゃったから」
「へ?」
氷河が『俺は一輝を殺せる』と言ったからこそ 不安と懸念を募らせていた星矢には、瞬の判断の根拠は理解し難いものだった。
瞬が、薄い笑みを、その口許に浮かべる。

「氷河がね、本当に兄さんを殺したいと思っているのなら、氷河は僕にあんなことを言ったりしないよ。兄さんを殺せるなんて、そんなこと絶対に言わない。言わずにじっと胸に秘めて、チャンスが来たら、迷いなく殺す。そして、僕の前ではやむを得なかったんだってポーズをとり続ける。そして、僕が許すのを待つんだ。じっと、黙って待ち続ける」
「……」

星矢の思考と感性は、既に瞬の話についていけない状態に陥っていた。
いったい氷河と瞬はどういう恋をしているのか――と思う。
瞬の兄を、慎重で計算高い男と、不思議な論法でこきおろす氷河。
氷河が兄を殺すなら、沈黙を守った上でそうするだろうと冷静に分析してみせる瞬。
氷河と瞬は、我儘な好き者と その我儘に逆らいきれない無抵抗主義者のカップルだと信じ込んでいただけに、今日の二人は、星矢にとっては見慣れぬ二人だった。

星矢よりは話についていけているらしい紫龍が、瞬に浅く頷いてみせる。
「おまえは許すだろうな」
「僕は甘いから」
瞬は両の肩をすくめて苦笑した。
「氷河が僕に 兄さんを殺すなんて言うのは、そのチャンスがきた時、兄さんを殺してしまわないためだよ。ああいうふうに兄さんに殺意があることを事前に告白しておけば、たとえば明日、氷河が兄さんを殺すようなことがあったとしたら、氷河がどんなに地上の平和のためだったって言ったって、僕は信じないでしょ。もっと詰まらない、もっと個人的な事情で殺したんだと思う。だから――僕に そう思われないために、僕に軽蔑されないために、氷河はもう何があっても兄さんを殺せない。氷河が兄さんを殺すことはないよ」

「まるで、氷河は おまえをなら殺せるみたいな言い方だな」
「氷河は、僕をなら殺せるよ。氷河が僕を殺しても、僕は氷河を憎んだり軽蔑したりしないもの。それで、僕を自分だけのものにできるのなら、氷河は僕を殺すだろうね。そして、勝利の凱歌をあげて、自分の命を絶つの」
「ぞっとしない話だ」
紫龍が、どちらかといえば不快そうに その眉をひそめる。
対して星矢は、明確に不快だった。
ただの害のない(?)助平だと思っていた男が、実は その胸中に そんな非情な思いを養っていたとは。
星矢は、氷河の中にある狂気に全く気付いていなかった自分こそが、この世界で最も甘い人間だったのではないかと疑うことになった。

それにしても、である。
「殺すの殺さないのって……。恋って、そんな殺伐としたものなのか? 俺は、恋ってのは、もっと明るくて楽しい“いいもの”なんだと思ってたぜ。特に氷河は やることさえできてりゃ それで満足できる、もっと単純でもっといい加減なもんなんだろーと、俺は――」
顔色なしといったていの星矢に、瞬は少しく慌てたらしい。
僅かに口角を上げて、瞬は首を横に振った。

「大丈夫だよ。そういう事態を招かないために、僕はもう二度とハーデスなんかには負けない。他の誰にも負けないから。僕は氷河に生きていてほしいもの。そのために、僕が死んじゃいけないんだってこともわかってる」
「そうしてもらえると助かるぜ。氷河のおまえへの執着振りを見ていると、俺、時々恐くなるんだよなー。あいつ、正気の時も、半分 狂ってるみたいじゃん」
「心配は無用だよ。そういう殺伐とした事態に陥らない限り、氷河はちょっと体力があり余ってて元気すぎるだけの腕白小僧みたいなものだもの」

あの非常識な行動を腕白小僧のいたずらと同列に語る瞬に、星矢は盛大に顔を歪めることになった。
せっかく うさぎ屋のどら焼きで機嫌を直しつつあった星矢に再び怒りを思い出させることは得策ではないと考えたらしい紫龍が、そこにすかさずフォローを入れてくる。
「セックスというものは、生と死のいちばん側にあるもので、かつ 生きているからこそできる行為でもあるからな。氷河は、瞬が生きていることを確認して安心したいだけなんだろう」
「んじゃ、何か? 氷河が助平なにーちゃんでいるってことは、世の中が平和だってことで、いいことだってのか?」
「瞬が生きていることを確かめられず不安になった氷河がしでかす“何か”よりは いいことだろうな」
「……」

紫龍の言には、星矢も同意せざるを得ない一理があった。
そして、世の中には、ベストではないにしろベターな事柄というものがあり、人間は大概 後者とこそ折り合いをつけて日々の生活を営んでいるものなのだ。
「そういうことなら……氷河の助平は大目に見てやることにしてもいいけどさ……」
決してベストではないが、その方が殺伐よりまし、氷河の狂気の表出よりはましである。
紫龍と瞬の説得に折れる形で、星矢は大人の対応をすることにした。
星矢のぼやきめいた結論を聞き、瞬がほっと小さく吐息する。

「そうしてあげて。氷河のあれは――『生きていたい、生きていたい』っていう叫びなの。氷河が生きているために――氷河は 僕が生きていることを確かめずにいられないだけなんだ」
「そっか……。氷河が生きているためには、おまえが生きていなきゃならないんだもんな……」
狂気よりは非常識の方がまし、氷河が 死人に執着しているよりは、生きている者に執着している方がまし。
要するに、そういうことなのである。
「うん、わかった。大目に見てやるよ」
氷河の非常識を許したからというのではなく――半ば以上は瞬のために、星矢は そう言って 二人の仲間に頷いたのだった。






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