瞬には会いたくなくても氷河には会いたいらしく、ヤコフは、瞬たちが村を訪ねていかない日には、必ず彼の方から氷河の家にやってきてくれた。 とはいえ、氷河は、彼の小さな友人と瞬のやりとりを興味深げに眺めているだけで、ヤコフの相手をするのは専ら瞬の方だったのが。 一般的には『誰にでも愛想がいい』という評価を受けているらしいヤコフは、瞬の前では、幼い頃の氷河のように無口で無愛想だった。 唯一の例外は、二人の会話の話題が『氷河』になる時で、その際には、シチューの作り方は決して教えてくれないヤコフも、瞬の10の問いかけに対して3くらいは答えを返してくれる。 つまり、ヤコフは、瞬が本当に彼と話したい話題には反応を示してしれる(こともある)のである。 アンドロメダ座の聖闘士が北の人間に好かれるようにできているのかどうかということはさておいて、ヤコフが瞬の気を引きつける術を心得ているのは、紛れもない事実だった。 「ヤコフは氷河が好きなの?」 その日は、ヤコフの方が氷河の家に来ていた。 瞬がヤコフにそう尋ねたのは、それが ヤコフが唯一反応を示してくれる話題だったせいもあったが、その時 氷河が二人のいる部屋にいなかったからでもあった。 ヤコフからの返事はない。 が、その頃には瞬は既にヤコフから返事をもらえないことに いちいち落ち込むこともなくなっていた。 めげずに、質問の内容を変えてみる。 「じゃあ、嫌い?」 その問いかけには、ヤコフはぷるぷると首を横に振るという反応を示してくれた。 それはヤコフにとって ヤコフは珍しく、彼にしては長いセンテンスを用いて、彼が氷河を嫌いではない理由を瞬に語ってくれた。 「俺、今よりずっと小さかった頃、冬眠から目覚めたばかりの白クマの前に飛び出ちゃったことがあったんだ。そのクマは飢えてて――殺されるって思った。氷河が助けてくれた」 「そっか……」 ヤコフにとって氷河は命の恩人――言ってみれば、ヤコフにとって氷河は彼のヒーローのようなものなのかもしれないと、瞬は思ったのである。 同じように両親がなく、だが、そんな境遇にある人間でも“強くなれる”という希望を与えてくれる存在でもあったのかもしれない。 瞬は、ヤコフの希望でありヒーローでもある友人を彼から奪ったよそ者なのだ。 ヤコフが瞬に打ち解けようとしないのも、ある意味 当然のことなのかもしれなかった。 「ごめんね。僕、これまでより もっとたくさん頑張って戦って、ワルモノたちを倒して、氷河がもっとシベリアに帰ってこれるようにするから」 「それでも、氷河はシベリアに帰ってこない」 「え」 「 「……」 二重になっている窓の桟を椅子代わりにしているせいで、ヤコフの目は、小さな木のスツールに掛けている瞬のそれと ほぼ同じ高みにあった。 氷河の小さな友人の瞳が、ひどく大人びた色をたたえて瞬を見詰めている。 氷河の新参の友人を見詰めているヤコフのその瞳に、瞬は僅かにたじろいでしまったのである。 「そ……んなことはないと思うけど……。もしそうなら、僕がもっとシベリアに来るようにするよ」 「ほんと?」 『鋭い』と表しても さほど語弊は生じないほど険しいものをたたえていたヤコフの瞳が ふいに和らぎ、輝き始める。 ヤコフが危惧していたのは 「うん。約束する」 瞬がそう答えると、ヤコフの瞳に宿っていた明るい光は、すぐさま彼の顔全体 身体全体に広がっていった。 全身を喜びの感情で包んだようなヤコフが、熟した豆が弾けるように明るく元気よく瞬に抱きついてくる。 「ありがとう! 瞬、優しい。大好き!」 「え……あ……」 豹変と言っていいようなヤコフの態度の変わりように瞬が戸惑ったのは、ほんの数秒の間だけ。 その数秒の時が過ぎると、瞬の胸中には じわりと熱いものが込みあげてきたのである。 ヤコフは、長い間 氷河に会えずにいたことを本当に つらく思っていたのだろう。 男の子は彼のヒーローの側にいて、その力に触れていたいと願うもの。 そうすることで自分も強くなれるという希望を抱くものだろう。 ヤコフの その希望と力の源を、そうしようと意図していたわけではなかったが、瞬は彼から奪っていたのだ。 ヤコフと同じ人を求め必要としている自分を知っているだけに、氷河を慕うヤコフの心が健気に感じられて、瞬はヤコフの小さな身体を抱きしめ返してやらずにはいられなかったのである。 昨日までのヤコフの無愛想も無口も、氷河を失うことを恐れていたがゆえ、たった今 子供らしい無遠慮さで強くしがみついてくるヤコフの手は、その恐れが消えたから――なのだと思うと、瞬はヤコフが可愛くてならなかった。 そのヤコフの手から ふいに力が抜けることになったのは、瞬より先にヤコフの方が氷河の登場に気付いたから――だったらしい。 いつのまにやってきていたのか、氷河が、彼の二人の友人の傍らにいて、そして彼はひどく険しい目付きで彼の二人の友人たちを見おろしていた。 「約束が成立したところに水を差して悪いが――瞬、聖域から呼び出しだ。1時間後に迎えのヘリが来る」 「え……」 聖域に新たな敵が現われたのかと瞬が氷河に尋ねる前に、 「瞬……もう帰っちゃうのか……?」 心細そうなヤコフの声が、瞬にすがりついてくる。 氷河をこれまでよりも しばしばシベリアに連れてくるという約束を交わした途端の この事態。 瞬は慌てて その手をのばし、ヤコフの髪を撫でてやったのである。 「大丈夫だよ。約束は守るから。悪者は僕がすぐに全部倒す」 「……無理しないでいいよ。瞬が怪我したりしたら大変だから」 「ヤコフ……」 1秒でも1分でも長く 彼は氷河に側にいてほしいのだろう。 そして、ヤコフの年頃の子供なら、その気持ちを素直に言葉にしてしまっても誰も彼を責めたりなどしない。 瞬は、ヤコフの子供らしからぬ自制と気遣いに、思わずじわりと涙ぐみそうになったのである。 瞬に涙を零すことをさせなかったのは、子供らしからぬ自制と気遣いの言葉に続いて ヤコフの唇が洩らした不思議な呟きだった。 「あと10年……」 「え?」 「あと10年経ったら、俺はもっと大人になってる。瞬より大きくなる。その頃には、氷河はじーさんになってる」 と、ヤコフは言ったのだ。 瞬にはそう聞こえた。 「じーさ……え? なに?」 「瞬は、俺の方がよくなるよ。だから、その時まで――約束を叶えるのは ゆっくりでもいい」 「ヤコフ……? あの……?」 ヤコフが何を言っているのか、自分が何を言われているのかが、瞬には よくわからなかった。 否、全く理解できなかった。 が、ヤコフが口にした言葉の意味が、氷河には理解できたらしい。 「やはり、そうきたか」 低く そう呟く氷河は、瞬とは対照的に、やっと理解できる言葉を聞くことができるようになったというような表情を その顔に浮かべていた。 あまり楽しくない予測でも、人は、事態が自分の予想した通りに進むと安心するものだろう。 氷河は、そういう人間が浮かべるだろう表情を、その顔に浮かべていた。 「氷河?」 氷河の低い呟きには苛立ちのような響きが含まれていた。 そして、その苛立ちと同じほどの強さを持った安堵と不審――予期した通りの結果を得た人間の安堵と不審の響きも混じっていた。 「出発の準備をしろ」 その不可思議な響きの声のまま、氷河が瞬に命じてくる。 「準備――って……」 氷河と瞬がここに持参したものは数日分の着替えくらいのものだった。 何も持たずに今すぐ ここを発っても、何の不都合も生じないというのに、出発の準備も何もあったものではない。 そう言おうとした瞬を、氷河が無言の睥睨で制する。 どうやら“出発の準備”は、瞬に席を外させるための口実だったらしい。 事情はわからないが、氷河は瞬にこの場にいてほしくないのだ。 氷河はヤコフと二人だけで話をしたいと思っている――。 そう察して、瞬は掛けていた椅子から立ち上がった。 部屋に残る二人の間に妙な緊張感が漂い始めているのを感じて、ひどく気掛かりではあったのだが。 |