氷河がいずれ その馬鹿な態度を改める時を待つのが賢明。
紫龍に そう諭されることによって、星矢の苛立ちと憤りは一応の収束を見たのだが、“わざと意地悪”される当人には、その状況はなかなか心穏やかではいられないものだったらしい。
まして、氷河がそんな態度を示す理由がわからないとなると、瞬の不安は抑えようがなく、その不安は罪悪感をさえ帯び始めているようだった。

瞬が瞬である限り、それは仕様のないことなのかもしれないと、星矢は思ったのである。
こういう時、『悪いのは氷河だ』と思ってしまえないのが、瞬の瞬たるゆえんなのだ。
となれば、瞬が 以前のように氷河の前で明るく幸せそうな笑顔を浮かべられるようになるために、氷河には とっとと“大人”になってもらわなければならない。
にもかかわらず、その時を待つことしかできない自分に、星矢は、今度は憤りではなく焦慮を覚えるようになってしまったのである。
星矢のその希望は なかなか叶えられなかったので。


いつかは氷河も大人になる――星矢と紫龍がその時の到来を期待することにした日の翌日も、氷河は瞬の心尽くしのお茶に口をつけなかった。
意識して、当てつけのように、氷河は そのお茶が冷めるのを待っている。
当然 瞬はしおれて、その肩を落としていく。
瞬に元気になってほしかった星矢は、とにかく瞬の意識を 氷河に飲んでもらえない お茶以外のところに向けたいと考え、だから 瞬の兄の話を持ち出したのだった。

「そ……そーいや、一輝の奴、今 どうしてんだろうな。群れるのは嫌いだとか何とか言って、ここを出てったけど、ガキの頃のあいつって、みんなを従えて のし歩いてる、どっから何をどう見ても お山の大将タイプだっただろ。あいつが ここを出てったのって、絶対、おまえの側にいると兄馬鹿丸出しになって、俺たちにからかわれることになるから、それが嫌で出ていったんだぞ。一匹狼 気取って、その実、ただのカッコつけの意地っ張りなんだよな。ほんとガキなんだから」
「そんな……兄さんはむしろ、僕が兄さんに依存して自立できなくなるのを避けるために、ここを出ていくことにしたんだと思う。兄さんだって、ここにいる方が生活に不自由せずに済むってわかっているのに、僕のために――」

人は誰もが 自分以外の人間のためを思って生きているのだ――と、瞬が考えるのは、他ならぬ瞬がそういう考えで生きているからである。
まして、実の兄のこと。瞬がそう考えたがるのは当然のことだったかもしれない。
だが、事実はそうではない。
瞬に依存しているのは絶対に一輝の方だと、星矢は思っていた。
瞬がいなければ、瞬の兄は 真のアテナの聖闘士になることも、その一人として仲間たちに迎え入れられることもなかっただろう。
一輝は弟の人徳に助けられて、“アテナの聖闘士の一員”というポジションを得ることができたようなものなのだ。

お人よしの瞬に、星矢がその事実を突きつけようとした時だった。
「奴は何も考えていないだけだろう。不愉快な奴の話をするな」
それまで仲間の話を聞いている素振りも見せず、ひたすら瞬のお茶を睨みつけているようだった氷河が、星矢より先に、星矢が言おうとしていた言葉より はるかに身も蓋もない言い方で、瞬の意見を否定してきたのは。
「不愉快……って……」

瞬が、氷河の言葉に驚いたように、金髪の仲間の上に視線を巡らす。
それは、瞬には信じ難い発言だったのだろう。
瞬の兄が生きて再び 仲間たちの前に姿を現わした時、氷河は、かつて一度は 命をかけて拳を交えた者への わだかまりを全く見せず、その生還を喜び、彼を仲間の一人として迎え入れた。
その様を、瞬は自身の目で見ていた。
そんな瞬に、氷河の言は――兄を『不愉快』と断じる氷河の言葉は――信じ難いものだったに違いない。

「も……もしかしたら 氷河は兄さんのことを恨んでるの? 確かに、兄さんは、一時は僕たちと敵対していたけど――氷河は兄さんと拳を交えもしたけど……。死んでしまったから許そうとしていたのに、兄さんが生きていたから、氷河は――それで僕にも――」
瞬の心の半分は、『そうではない』という氷河の答えを期待しているようだった。
だが、残りの半分は、『そうだとしても仕方がない』という諦めでできていた――おそらく。
氷河が瞬の心の半分のどちらを否定し、どちらを肯定するのか。
星矢は固唾を呑んで、氷河の答えを待つことになったのである。

氷河が肯定したのは、おそらく前者の方だった。
だが、彼が瞬に与えた答えは、瞬の心の全部を否定するものでもあったのである。
「つまり、おまえは、おまえが俺に素っ気なくされる原因が自分にあるとは考えないわけだ。人に嫌われることに慣れていない、誰にでも好かれる いい子ちゃんのおまえらしい傲慢だな」
と、氷河は瞬に言ったのだ。

「あ……」
氷河の冷たい態度が兄の生還に起因したものでない(らしい)ことは、瞬には嬉しいことだったのだろう。
とはいえ、氷河の冷たい態度の原因が やはり自分にあるらしいことを知らされた瞬に、その事実を喜ぶことができるはずもない。
瞬は、一瞬間だけ 心を安んじたような表情を浮かべ、そして、すぐに その顔を暗く打ち沈ませることになったのである。

が、“暗く打ち沈む”で済まないのは星矢だった。
氷河に そんなことをされて、瞬の気を引き立たせようとする己れの努力を台無しにされた星矢が、大人しく黙っていられるわけがない。
当然 彼は、眉を吊り上げて、氷河への反撃に出た。
「おまえな! おまえみたいな“悪い子”が、瞬を責めるのも傲慢だろ! なら、瞬の何が悪いのか、瞬の何が気に入らないのか言ってみろよ! 言えないだろ。言えるわけないよな。言ったら、自分が拗ねてるだけの駄々っ子だってことがばれちまうから! 瞬、氷河の言うことなんか気にすんなよ!」
「確かに――“いい子”でいることが罪悪であるような氷河の言い分は完全に間違っているな」

星矢と紫龍に、二方向から異なる調子で責められても、氷河は全く動揺した様子を見せなかった。
たじろぐ様子も、慌てた様も、もちろん反省した様子も、氷河は見せなかった。
彼はただ、不愉快そうに僅かに眉をひそめただけだった。
むしろ、星矢に庇われる格好になった瞬の方が、仲間に責められている氷河の心を気遣って、頬を青ざめさせている。

星矢は、いくら何でも言いすぎた――と、(瞬のために)思ったのだが、一度 発してしまった言葉を言わなかったことにするのは不可能なこと。
星矢にできたのは、青ざめた瞬の頬に少しでも血の気を戻すべく、別の話題を提供することだけだった。
「そーだ。今度は、俺と、俺好みのお茶の開発してみよーぜ。俺には お茶の味なんか全然わかんねーけど、俺専用のお茶だったら、俺も美味いって思うかもしれねーし」

『おまえにわかるのは せいぜい、砂糖とミルクの量の増減くらいのものだろう』
氷河に そんな皮肉を言われることを覚悟した上での、それは星矢の捨て身の(?)提案だったのだが、星矢が覚悟していた皮肉を、氷河は口にしなかった。
彼はただ、ひどく冷ややかな目をして――否、目的地に向かってまっすぐにのびている白い道に、突然脇から飛び出してきて 黒い染みのように 道の真ん中で動かなくなった小動物を見るような目をして――つまり、彼の行く手を阻む障害物を見るような目をして――星矢を一瞥しただけだった。
そして、そのまま無言でラウンジを出ていく。

「おい、紫龍……。大人になれてないだけにしては――何かたちの悪い悪霊にでも憑かれてるみたいに、今の氷河の目には悪意があったぞ……」
氷河の姿が消えてしまったラウンジで、星矢は思わず紫龍にぼやいてしまったのである。
さすがに この事態は看過できないと思うようになったのか、紫龍が星矢のぼやきに首肯する。
「うむ……。よろしくないな。いったい何が氷河をあんなふうにしているのかは わからないが――とにかく、何か嫌な感じがする」

いったい何が氷河を変えてしまったのか――。
その原因がわからないだけに、星矢と紫龍のやりとりは、瞬の困惑を更に大きく深いものに変え、その上に、新たな不安の雲までを運んできてしまったようだった。






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