不安でたまらなかったから――翌日、まるで以前の彼に戻ったように穏やかな声で、 「昨日は言いすぎた。すまなかった」 と氷河に言われた時、瞬は自分が彼に何を言われたのか、咄嗟に理解することができなかったのである。 それが謝罪の言葉だと理解できてからも、瞬の戸惑いは消えなかった。 「氷河……あの……?」 それまでは 優しく親しみやすい仲間だった氷河が、ある日突然 冷淡な他人に変わってしまったように、今日 突然、氷河が元の氷河に戻るなどということがあるのだろうか――? あるとしたら、それはなぜ、どういう経緯で――? “素直ないい子”であるはずの瞬が、そんな疑念を抱くことになったのは、昨日までの瞬が氷河に冷たくされることに傷付きすぎ、悲観的になりすぎていたからだったかもしれない。 そんな瞬の疑念を察したように、氷河が、 「母の命日が近付いていたから、苛立っていたんだ。許してくれ」 「氷河のマ……お母さんの命日が?」 低い呻きにも似た氷河のその一言は、瞬の疑念を霧散させることになった。 そうして、なぜ自分はこれまで その可能性に思い至らずにいたのかと、瞬は、今度は 自身の迂闊こそを疑うことになったのである。 氷河の心を大きく揺り動かし、激変させることもできる人。 そんなことのできる人間が、彼の母親以外にいるはずもないというのに。 「氷河のお母さんの命日って、いつなの」 「2日後――明後日だ」 「あさって……」 氷河の母の命日の話など、瞬はこれまで一度も聞いたことがなかった。 氷河は、彼の母が生きていた頃の美しい面影を慕うことはあっても、命日などというものを気にかけるようなことはしない人間なのだと、瞬は思い込んでいた。 氷河にとって大切なのは、彼女が死んだことではなく、彼女が生きていたことなのだと、瞬は思っていたのである。 だが、そうではなかったらしい。 彼女の生以上に、彼女の死は、氷河にとって大きな意味を持つ事実であったようだった。 「母は俺のせいで死んだ。俺は、その日には、自分の無力を戒めて過ごすことにしているんだ」 「氷河……」 その時、氷河はまだ幼い子供だったはずである。 その時の彼が無力な子供だったことを、氷河が自戒する必要などあるだろうか。 あるはずがない――と、もちろん瞬は思った。 だが、瞬は その思いを、言葉にして氷河に伝えることはできなかったのである。 自分が氷河の立場にあったなら、やはり彼と同じように、自分も自らの無力を嘆き悲しむことになっていただろうと思えたから。 だから、瞬は、俯くように頷いて唇を噛みしめたのである。 そうして瞬は、小さな声で、氷河の母を偲ぶ言葉を彼に告げたのである。 「氷河のお母さんって、綺麗な人だったんだよね」 「……」 氷河からの返事がないことで、瞬は 自分が心無いことを言ってしまったことに気付いた。 慌てて、微かに首を横に振る。 「ご……ごめんなさい。思い出させて……」 「いや……」 今日の氷河は、昨日までの彼と打って変わって、何もかもが穏やかだった。 凪いだ北の海に映る 冷たく冴え冴えとした白い月のような佇まいで、彼は瞬の失言を責めることもしなかった。 代わりに、月のように静かに微笑する。 「会えずにいると記憶は薄れるものだ。写真が一枚だけあって、いつも持ち歩いていたんだが」 「あ、子供の頃、一度だけ見せてもらったことがあったよ。今でも大切にしているんでしょう?」 話している話題が話題だったというのに、氷河との間に会話が成り立っていることを、瞬は心のどこかで喜んでしまっていたらしい。 まだ少々のぎこちなさは残っていたが、それでも笑みと呼べるものを作って、瞬は自分の中にある氷河の母を語った。 次の瞬間、その笑みは、氷河の穏やかで冷たい月のような一言で凍りつくことになってしまったのだが。 「失くしてしまった」 「え……?」 氷河が、たった一枚だけの その写真を 何よりも大切にしていたことを、瞬は知っていた。 瞬自身、幼い頃に一度だけしか見せてもらったことがない。 その時も、氷河は、母の写真を他人の手に預けることをせず、自分の手で瞬の前に その一葉を指し示しただけだった。 氷河と同じ色の髪と瞳をした、若く美しく優しそうな女性。 氷河は この美しい人の命を受け継いでいるのだと、憧憬と羨望と悲しみを感じた記憶が、瞬の中には鮮やかに残っていた。 それを失くしてしまったとは――。 まさか 氷河が彼の不注意で それを失うような事態を招くはずがない。 瞬は、当惑というより、むしろ混乱して、氷河が彼の大切なものを失うことになった事情を、彼に尋ねたのである。 「そんな……いったいどうして? どこで?」 氷河の答えは、瞬の混乱を打ち消してしまうものだった。 「殺生谷で戦っている時に。どこかに飛んでいったか、落としてしまったか……。いつも持ち歩いていたのが仇になった」 「あ……」 氷河に知らされた事実によってもたらされた衝撃で、瞬の身体が震える。 同時に、瞬は、すべての謎が解けたような気がしたのである。 氷河は、どう考えても 自分と兄のせいで彼の大切なものを失ってしまったのだ。 しかも、そのことを、彼は今まで仲間たちに知らせずにいた――瞬を責めることをせずにいた――。 「人間の記憶というのは悲しいものだ。思い出すための 「……」 『今年は写真なしの命日だな』 凪いだ海に映る 冷たく冴え冴えとした月の光のような口調で、氷河がそんな呟きを呟くことになったのは、一時はアテナへの反逆者だった兄と自分のせい――兄をデスクィーン島に行かせてしまった自分のせい――なのだ。 氷河が自分たち兄弟をよく思わないのも当然のことと得心し、瞬は胸が詰まる思いに囚われることになった。 「――ごめんなさい」 その一言を、自分は氷河に告げたることができたのか、あるいは告げることさえできなかったのか。 瞬は、しばらく何も考えることのできない状態が続き、そのために、その後の記憶を持つことができなかった。 |