不安を抱いて沢山家に向かった瞬と沙織を出迎えてくれたのは、20代前半の背の高い青年だった。
アングロサクソンの血が入っているだけに、体格は優れていて、顔立ちも日本人離れしている。
髪や瞳の色も、黒といえば黒だったが、少し褐色がかっている。
病のせいか、線の細い印象は否めなかったが、どんな先入観もなしに出会っていたなら、瞬は彼を、大柄で誠実そうな好青年と思っていたに違いなかった――事実も、そうであるようだった。

「城戸さんですか。母が朝から いらっしゃるのを楽しみに――」
その好青年が、沙織の後ろに隠れるように立っている瞬の姿を認め、驚いたように言葉を途切らせる。
彼の視線のせいで瞬が身体を縮こまらせた時、折り良く、お茶の準備をしていたらしい この家の女主人がやってきて、息子が言い損ねた『ようこそ』を、『ありがとう』の代わりだとわかる口調で口にした。

「いらしていただけて、本当に嬉しいです。沙織さん。瞬さん。こちらが息子のたかしですの」
「はじめまして。お会いできて嬉しいわ。私たち、お母様のお世話なさっている お庭に魅せられてやってきた蜜蜂や蝶々みたいなものですのよ。こちらのお庭は本当に綺麗なお庭で――瞬、あなた、何を恥ずかしがっているの。沢山さんのお宅のお庭に最初に恋したのはあなたでしょう」
いったい沙織は何を考えて そんな言葉を選び用いるのか――沙織の語彙選択に戸惑う瞬の腕を掴んで、彼女は瞬を沢山貴氏の前に引っ張り出した。

「は……はじめまして。お邪魔します」
瞬がぺこりと頭を下げ、恐る恐る顔をあげる。
そこにあった見慣れぬ色の瞳の前で、瞬は瞬きを忘れたのである。
希望ではなく諦観が作る穏やかさが、そこにはあった。
彼は何もかもを知っているのだと、瞬は直感した。


「イギリスに留学していらしたのですって? 瞬に、クイーンズイングリッシュを教えてくださると嬉しいわ。瞬は英語より先にギリシャ語やアムハラ語を覚えてしまったので、英語が少々頼りないんですの」
「それは喜んで。しかし、アムハラ語? すごいな。僕の方が教えを請いたいくらいだ」
瞬たちが案内されたのは、沢山家の庭を一望できるテラスにセッティングされたお茶のテーブル。
白い楕円形のテーブルの上には、星矢が見たら狂喜しそうなお茶菓子やサンドウィッチが品よく並べられていた。
さすがに女神と言うべきか、貴氏と そつのない会話を交わす沙織の隣りの席で、瞬はお茶に手をつけることもできず、ひたすら無言で瞼を伏せていたのである。
顔を伏せずにいるだけでも、自分にしては上出来だと思いながら。

貴氏の視線が自分の上に留まっていることに 瞬が気付いたのは、ゆえに、テラスのテーブルに着席後 かなりの時間が経ってからだった。
氷河のそれのように強烈な力も熱もない視線。
いったい自分はどれだけ長い間、彼の視線の中で黙りこくっていたのかと不安になり、瞬はおどおどしながら、初めてまともに沢山家の母と子を見たのである。
瞬と視線が合っても、貴氏は全く表情を変えなかった。
瞬の上から視線を逸らすでもなく、“優しい”としか言いようのない眼差しを瞬に向けたまま。

ちらりと母親の方を見ると、彼女は、息子の笑顔を見て、切なげに目を細めていた。
息子に比べると二まわり以上小柄なせいか、彼女は実際の年齢よりも はるかに若く――小さな少女のようにさえ見える。
その少女のように小柄な女性が、確かに母親の眼差しで、彼女の息子を見詰めている。
微笑んでいるのに、どこか寂しげな瞳の色――。

この哀しげな母のために頑張らなければならないのだと、瞬は気を引きしめることになったのである。
『本心を知られたら、その人の人生を狂わすことになるのだと常に自覚していろ』と、氷河も言っていたではないか。
ここに来る前ならいざ知らず、瞬は、今 現に彼の前にいるのだ。
せめて蜜蜂の『ぶんぶんぶん』よりは まともなことを言わなければならない。
瞬は、自分にそう言いきかせた。

「あの……以前、古いミュージカル映画を見たことがあるんですけど、英国の英語って、同じロンドンでも地域や住人の階級によって違うってほんとなんですか」
「『マイ・フェア・レディ』かな。その通りです。今でも、あの映画の通り、ロンドンの下町では、『ei』を『ai』と発音する」
「The rain in Spain stays mainly in the plain ――」
『マイ・フェア・レディ』の歌以外で瞬が唯一覚えているセリフがそれだった。
あの映画のヒロインのように注意深く、瞬がそのセンテンスを口にする。
貴氏は苦笑して、瞬に、
「それは下町の発音ですよ」
と言ってきた。

「えっ」
瞬がびっくりして瞳を見開くと、貴氏はすぐに その苦笑を いたずら好きな子供のような笑顔に変えた。
「嘘です。綺麗な発音だ。瞬さんは、いい先生についていたようだ」
「びっくりさせないでください。僕は――あ、いえ、決して、下町の言葉をどうこう言うつもりはないんですが……」
「僕も、日本で育ったせいか、英国の階級意識にはどうしても溶け込めなかった。人間は誰もが自分の人生の王であり、女王であるべきだと、僕は思う」
「そうですね……」

力なく同意した瞬に貴氏が続けて言おうとした言葉――が、瞬には聞こえたような気がしたのである。
『たとえ、王の人生を、王より自在に操ることのできる神が存在するのだとしても』
貴氏がその考えを実際に言葉にしなかったのは、自分の人生の王としての誇りのためではなく、おそらくは、彼を愛し見守る母のため、彼女を傷付け苦しめないためだったので――瞬は彼に深い好意を抱くことになったのである。

「お茶もスコーンもとてもおいしくて、綺麗なお庭はいくら見ていても飽きない。時間があったら、私自身が毎日通いたいのですけど、なにぶん多忙なもので……。瞬を代わりに通わせますので、瞬を このお庭の美しさとセンスに馴染ませてやってくださいね」
沢山家を辞する際の 沙織のその言葉に嬉しそうに瞳を輝かせたのは、これまで名も知らずに見詰め続けていた“美少女”と知り合えた息子ではなく、その母親の方だった。
瞬の手には、星矢の伝言を喜んだ沢山夫人からの土産の詰まったバスケット。
貴氏は、『さようなら』の代わりに『ありがとう』と言って、最後まで穏やかに微笑んでいた。






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