「今日はわりとちゃんとできたと思う。少なくとも、僕、泣かなかったし、取り乱しもしなかったし――。貴さんも元気そうで、優しい人だったよ。あさって、また お邪魔させていただくことになったんだけど、これなら うまくやっていけるかもしれない」
城戸邸に帰宅した瞬が最初にしたことは、氷河の姿を捜して、今日の沢山家での首尾を彼に報告することだった。
自室の窓から、手入れは行き届いているが沢山家の庭ほど魅力的とは言い難い城戸邸の庭を睨みつけていた氷河に、外からではなく内から見た沢山家の庭の様子、沢山家の未亡人の親切、子息の印象、彼と交わした会話の内容、彼に好意を抱いたことや いただいたお茶がおいしかったことまでを事細かに、どちらかといえば明るい調子で報告した瞬に、氷河から返ってきた言葉が、
「気を抜くな。徒然草の『高名の木登り』を知っているか」
だった。

なぜここで突然 木登りの話が出てくるのかと怪訝に思いつつ、瞬は臆病に小さく頷くことになったのである。
「木登りの名人が、人を使って木の上で仕事をさせてて、その人が木の高くて危ないところで仕事をしていた時には何も言わなかったのに、仕事を終えて安全なところまで下りてきた時に初めて、『気をつけろ』って注意した話でしょう?」
「もう大丈夫だと油断する心が失敗を招きやすいということだ。おまえはまだ最初の一つの関門をクリアしたにすぎない」
「それはそうだけど……はい……」
「自分を影響力のない無力な人間だと思うなよ。誰かを好きでいる人間には、好きな相手の何気ない一言や ちょっとした表情一つが 途轍もない力を持って作用する。どうでもいい奴や嫌いな相手になら、何を言われようが何をされようが鼻で笑っていられるが、それが好きな人のしたこととなったら話は全く違ってくる」
「ん……うん……はい……」

出だしがうまくいったというので油断していれば、いずれ その油断に足元をすくわれることになるのは必定。
氷河の忠告は適切で正しい。
そう思うから、瞬は、己れの油断と軽率を深く恥じ入り、反省した。
反省はしたのだが。
瞬は、それとは全く別のことが気にかかったのである。
それは、つまり、
(氷河には好きな人がいるの……?)
ということだった。
そうでなければ、『誰かを好きでいる人間には、好きな相手の何気ない一言や ちょっとした表情一つが 途轍もない力を持って作用する』などという言葉は出てこないと思う。
そういう言葉を口にすることはできても、実感のこもった厳しい口調にはならないだろう――今の氷河のように。
そう思った途端、瞬は、胸の中に重い鉛の球を一つ埋め込まれたような気持ちになったのだった。


氷河に埋め込まれた鉛の球が効を奏したわけではないだろうが、瞬は、二度目の沢山家訪問は ほどよい緊張感を保って無難に済ますことができた。
貴氏は 物腰はやわらかく、優しく紳士的。
それでいて堅苦しいところはなく、彼と同じ空間にいることは心地良い。
瞬は、彼と向き合っている間に幾度も 自分に課せられた使命と役割を忘れてしまいそうになったのである。
偏見がなく話題も豊富な貴氏は、誰かに頼まれなくても友人になりたいと思えるような、温かい人柄の人物だったから。

だというのに、氷河は言うのである。
「紳士的だからといって、気を許すな」
などということを、真顔で。
「ずっと笑っていられたと気を緩めるのも厳禁だ。おまえに笑顔を見せられたら、大抵の男は期待する。変な期待を抱かせたら、それこそ残酷というものだ。過剰な期待を抱かせず、失望もさせないように、絶妙の対応が必要なんだ。笑うのが悪いと言っているわけじゃないぞ。いくらでも笑顔を見せてやれ。ただし、完全に気を許したわけではないと思わせるような よそよそしさを垣間見せながら」
「……」

氷河が瞬に要求する“対応”は、瞬にはあまりに難度が高すぎるものだった。
感情を偽るだけでも難しいというのに、氷河はそこに更に微妙な注文をつけてくる。
氷河の指示を完璧に実践することは、そのまま神経をすり減らすこと同じ。
笑いたい時に思う存分 笑い、泣きたい時に思い切り泣くことができることは、実に素晴らしい幸運にして幸福なのではないかと、瞬は思った。
そして、氷河はいったいは誰のために、その困難な作業をしているのだろう? ――と。
氷河にそれだけのことをさせている人物は誰なのか。
姿の見えないその人物の存在が、瞬の胸を更に重くした。






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