完璧に氷河の指示通りに動くことはできていないにしても、それなりに順調だった瞬の沢山家訪問。 氷河に忠告されていたにもかかわらず、おそらく、瞬は油断していた。 瞬がとんでもない失態を演じて、しおれて城戸邸に帰ってきたのは、その5度目の訪問時だった。 「体調がいいっていう貴さんと庭を散歩してたら、貴さんが急に胸を押さえて倒れてしまったんだ。僕、どうしたらいいのか わからなくて、動かしていいのかどうかもわからなくて――お母さんを呼びに行こうとしたら、ただの貧血だから呼ばなくていいって 貴さんは言うし、でも、貴さんは すごく苦しそうだし――。僕、貴さんの横で泣いてることしかできなかった。僕、もう貴さんのところには行けない。貴さんはただの貧血だって言ってたのに、あんなに泣いて、僕、きっと変に思われた……」 氷河の忠告を守りきれず失態をさらしたことを、氷河に報告している時、瞬はおそらく氷河に厳しく叱責されることを期待していた。 『ごめんなさい』を言うことも許されないほど口を極めて叱られてしまえば、その間だけでも、自分は 自分の犯したミスを悔やむことなく、氷河の怒りを恐れていられる。 そう、瞬は思っていたのだ。 だが、氷河は瞬のミスを責めることをしてくれなかった。 彼は、表情も変えずに、 「明日も、何もなかった顔をして、行けばいい。なぜ泣いたのかと問われたら、驚いただけだと言えばいい。それだけのことだ。おまえが沢山家に行くのをやめたら、それこそ その男に不安と不審を抱かせることになるだろう。ただ貧血で倒れただけなのに」 と、瞬に言ってきたのである。 「で……でも……」 「おまえの話を聞いていると、そのタカシサンとやらは、どう考えても自分の病気がどういうものなのかに気付いている。――ように思える」 「……多分」 「そして、おまえは、母に頼まれて 同情すべき病人の許にやってきたのだと、そのことも薄々察している」 「え……」 「その男が、おまえの同情や優しさを、自分への侮辱と思うか、あるいは感謝するのか。おまえが これまで通り沢山家訪問を続けるか中止するかは、その男の反応を見定めてから決めればいい」 「侮辱……?」 我が子を思う母の心や、その心に打たれた人間が彼の許を訪ねることを、彼が侮辱と考える可能性がある――と、氷河は言っている。 瞬は、氷河の語る可能性を認めることはできなかった。 そんなふうに考える人もいるのかもしれない――とは思う。 だが、あの優しい眼差しの持ち主が そんなふうに考えることはないだろう。 そう信じることが、瞬にはできた。 けれど。 貴氏が、彼の周囲の人間の行動を侮辱と考えることはなくても、彼が その行動に傷付くことは 決してないことではない。 そんなことにすら考えを及ばせていなかった自身の無思慮に、瞬は、きつく唇を噛みしめることになったのである。 彼を傷付けたくはない。 彼を傷付けないために、自分はもっと慎重に振舞うべきだったのだ――と。 「おそらく、そのタカシサンは、明日 おまえが訪ねていっても、何もなかったような顔をして、おまえを迎えてくれるだろう」 “迂闊”では済まされない 自身の無思慮に青ざめてしまった瞬に、氷河は無感動な声でそう言った。 そして、翌日の沢山家訪問では、氷河の予見通りのことが起こったのである。 「昨日は驚かせてすまなかった。貧血を起こして瞬を驚かせ泣かせてしまったと母に言ったら、それは鉄分不足だと決めつけられて、今日は朝からレバーペースト責めだよ」 貴氏は、氷河の予見した通り、何事もなかったように笑いながら そう言って、これまでと同じように瞬を彼の家に迎え入れてくれた。 そして、いつものように庭の見えるテラスでお茶を飲みながら、これまでと同じように様々な会話を交わす。 恐いくらい、何もかもが いつも通り、これまで通りだった。 誰かが、この訪問劇の台本を書いているのではないかと疑いたくなるほどに、波乱がない。 昨日までのそれと変わらない貴氏の笑顔を見ながら、もしかしたら自分は結末の定まっている劇を演じさせられている役者に過ぎないのではないかとさえ、瞬は思ったのである。 その日の沢山家訪問が これまでの訪問と一つだけ違っていたのは、瞬が沢村家を辞去する際、貴氏に、 「知っているのだとは思いますが、自分の口から言いたかったので」 と呼びとめられたこと。 そして、 「僕は、あなたがとても好きです」 と言われたことだけだった。 |