恋の目的格

〜 akiraさんに捧ぐ 〜







「相談したいことがあるんだが」
と 氷河に言われた瞬は、その夜、胸をどきどきさせながら、氷河の部屋に向かったのである。
氷河にそんなことを言われるのは初めてのことだったし、そもそも氷河が自発的に人に頼ろうとすること自体が、椿事といっていいほど滅多にない事態。
これは余程のことと案じつつ、だが、瞬は、心のどこかで氷河に頼られることを嬉しいと感じてもいたのである。

瞬がそんなふうでいられたのは、瞬がアテナの聖闘士であり、氷河もまたアテナの聖闘士であったからだったろう。
氷河の相談事の内容がどれほど深刻なものであったとしても、それが、アテナの聖闘士が日常茶飯のこととしている命がけのバトルより深刻なものであるはずがないという油断が、(おそらく)瞬の中にはあったのだ。

「相談ってなに? 僕で力になれること?」
瞬の案に相違して――自室で瞬を出迎えた氷河の表情は、極めて深刻かつ真剣なものだった。
氷河の瞳の青が 夜の海のように濃い色を呈しているのを認め、瞬は慌てて心身を引き締めたのである。
人の悩みというものは、第三者の目で見れば些細なことであったとしても、悩みを抱えている当人には命をかけたバトル並みに深刻なものであるに違いない。
そう考えて。

氷河に示された椅子に腰をおろし、瞬は緊張して、氷河の言葉を待った。
小さなティー・テーブルを挟んで向かい側の椅子に腰掛けた氷河は、だが、なかなか彼の相談事を話し始めない。
庭に向かって開け放たれたベランダに続くガラスドアの外からは、秋の虫の涼やかな鳴き声が聞こえてきたが、それらの声は瞬の緊張を薄れ弱めるための どんな役にも立たなかった。
瞬の緊張感が高まり、そろそろ限界に達するという頃になってやっと、氷河が口を開く。
いつもの彼とは違い、どこかにためらいを含んだ 自信のなさそうな声で、彼は瞬に告げたのだった。
「実は……好きな人ができたんだ」
――と。

「えっ?」
一度 大きく撥ねあがったかと思うと、次の瞬間、瞬の心臓は止まりそうになった。
それは、氷河の沈黙によって長く強いられた瞬の緊張の糸が それだけ大きく震えたからだったろう。
だが、その直後、瞬の喉の奥が急に渇き、更には目の奥までが熱くなり始めたのは、決して緊張と弛緩の作用によるものではなかったに違いない。
いずれにしても、氷河の相談事の内容を知らされた瞬が、ふいに泣き出したい気持ちになったのは、瞬自身にも否定できない確かな事実だった。
「ど……どんな人? 優しい人?」
たったそれだけのことを訊くのにも、瞬は かなりの力――声を発するための力と、涙を耐えるための力――を要した。

「それはもちろん」
氷河が、瞬に即答してくる。
即答してから――それまでの真剣な面差しを僅かに崩し、氷河は瞬に微かな笑みを向けてきた。
「『綺麗な人?』と訊かずに『優しい人?』と訊いてくるのは、実に おまえらしいな」
そう告げる氷河が自分に向けてくる眼差しが優しいので、瞬は胸が詰まったのである。
昨日までは、氷河にそんなふうな目で見詰められることは、ただ嬉しいことだったというのに、なぜ今はこんなに苦しいのか――。
瞬は、そんな疑念を抱いたのだが、今の瞬には その疑念の答えを探している余裕はなかった。
氷河に相談を受けている者として、彼の仲間として、不自然でない態度を保持するだけで、今の瞬には精一杯だったから。

「ひょ……氷河なら、きっと、どんな人にでも すぐ好きになってもらえるよ。氷河に好きだって言われたら、きっとどんな人だって嬉しくなるに決まってる。氷河は、な……何が心配なの。氷河なら大丈夫だよ。何の心配もいらない」
「おまえがそう言ってくれるのは嬉しいが――事はそう容易には運ばないんだ」
「ど……どうして?」
「俺が好きになった相手は、その……同性なんだ」
「同性?」

だったら、僕だって!
瞬は つい、そう叫んでしまいそうになったのである。
実際、瞬は叫んだ。
自分の胸の中で。
叫んでから、そんなことを考えている自分に、瞬は驚いた。
そして、瞬は自覚した――というより、初めて気付いたのである。
自分の中にあった、愚かな うぬぼれに。

氷河はいつも瞬に優しかった。
彼は、特に瞬に優しかった。
だから、瞬は、自分は氷河に特別な好意を持たれていると勝手に信じていたのだ。
それを恋だと思ったことはなかったが、それでも瞬は、氷河にとって自分は特別な存在なのだと思い込み――うぬぼれていた。
だが、そうではなかったのだ。
氷河が彼の仲間の一人に対して特別に優しく接してくれていると感じていたのは、そして、事実優しかったのは、おそらく 氷河が気軽に優しく振舞えるような相手が身近にいなかったから。
ただそれだけのことだったのだ。
氷河が本当に優しくしたい人は別にいて、彼の相談事というのは そのことなのだろう。
氷河は、一般的にはマジョリティとは言い難い恋の進退に迷っているのだ。

「どう思う?」
氷河が探るような目付きで、瞬に尋ねてくる。
「どう……って……」
許されるなら、瞬は、『そんなことを僕に訊かないで!』と大声で叫んでしまいたかった。
だが、そんなことをしてどうなるというのか。
そんなことをしても、氷河の悩み事を一つ増やすだけである。
瞬には そんなことはできなかった。
人生の一大事である恋の相談相手に足る人間として自分を選んでくれた氷河の期待を裏切ることは、瞬にはできなかった。
だから、瞬は考えたのである。
いつもの癖で、問われたことへの答えではなく、質問者が求めている答えが何であるのかを。

氷河は、『そんな恋はやめた方がいい』と人に言われても、その忠告に従うような人間ではない。
彼は、好きになったら、その人しか見ない。
他人が何を言っても、氷河は その心を変えることはしないだろう。
となれば、今 氷河が求めているのは、彼の恋を認めてくれる人、彼の恋を理解してくれる人、彼の恋を否定しない人であるに違いない。
ならば、瞬にできることは、彼の仲間として彼を励ますことしかなかった。

「僕は――氷河がその人を好きになったっていうのなら、それがいちばん大事なことで、他のことは――その人が同性だろうと、歳上だろうと、たとえアテナの敵でも、そんなことは付随的なことに過ぎないって思うけど……。人に やめとけって言われて、氷河が その人を好きでいることをやめられるのなら話は別だけど」
氷河にそう答えながら、瞬も つい氷河の心と反応を探り窺うような目になる。
氷河は、瞬の期待通りの、あるいは期待に反した反応を、即座に返してきた。

「そんな器用な真似ができるか。嫌いになれと言われて、嫌いになるなんて。そんな器用な真似ができるなら、俺はもっと楽な恋を選ぶ。最初から自分と同じ男を好きになったりしない」
氷河の答えは、まさに瞬の推察通りのもの。
そして、瞬の希望とは真逆のものだった。
「うん……。氷河なら そう言うと思った」
唇を引き結び、顔を隠すように、氷河に頷く。
顔を伏せたまま、瞬は、彼の仲間としてふさわしい言葉を重ねた。

「なら、あとは、その人に好きだって告白して、自分を好きになってもらえるよう努力するしかないでしょう。何を悩むことがあるの」
「それはそうなんだが、自分でも意外なことに、俺は実はかなりシャイな男だったらしくて――」
「相手は誰」
氷河に尋ねる自分の声が ひどく冷たい響きを帯びているような気がして、瞬は慌てて言葉をつけたした。
「氷河とその人のために――僕にできることがあったら協力するよ」
「……」
瞬の協力の申し出に、氷河は、何やら考え迷う素振りを見せた。
「少し考えさせてくれ。相手が何者なのかを おまえに知らせて、その人に迷惑がかかるのはまずい」
「あ……うん……そうだね……」

氷河の人間分類は、いつも極めて明瞭明確だった。
『好意を抱ける人間』と『関心を抱けない人間』。
その二種類だけ。
『関心を抱けない人間』は徹底的に無視し、氷河の心は『好意を抱ける人間』にだけ向かう。
その中でも、その人は別格であるらしい。
氷河がそこまで気を遣うほど――彼は本気でその人が好きなのだと、瞬は切なく思った。
『好意を抱ける人間』の一人である仲間より はるかに、氷河はその人を気遣っている。
氷河は、この恋にそれほど真剣で、決して この恋を失いたくないと考えている――おそらく、決意している。
それゆえの細心、それゆえの慎重。
時に星矢より大様なところのある氷河らしくないと思う一方で、この一途は いかにも氷河らしいと、瞬は涙をこらえながら思った。

「わざわざ来てもらって すまなかったな。俺は――もしかしたら ただ、俺に好きな人がいるということを誰かに知ってもらいたかっただけなのかもしれん。誰にも言わずにいると、いろいろなものが胸にたまって苦しくて」
「ううん……。僕こそ、何の力にもなれなくて……」

顔を俯かせたまま首を横に振り――自分の部屋に戻ってやっと、瞬は、耐えていた涙を自分の外に出すことができたのである。
これほど好きなのに――氷河のために涙を耐えられるほど好きなのに、氷河のために これほど多くの涙を流せるほど好きなのに、なぜ自分は これまで自分の心に気付かずにいることができたのか。
瞬は、それが不思議でならなかった。

『なぜ』の答えは、だが、すぐに見付かったのである。
それは傲慢のせいだった。
氷河は自分に特に優しい。
だから、氷河は自分を特に好きでいてくれる。
瞬は、勝手に一人で そう思い込んでいた――思い上がっていたのだ。
だが、その傲慢は打ち砕かれた。

それは、良いことなのだろうと思う。
そんな傲慢な人間が氷河を愛し 氷河に愛されても、傲慢な人間は、その傲慢で氷河を苦しめるだけだろう。
だから、氷河の恋を幸福なものにするために、自分は自分にできるだけのことをしようと、瞬は思ったのである。
一晩泣き明かして、瞬が その決意に至ることができた時、外の世界では既に新しい一日の朝が始まっていた。






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