ラニーニャ現象の影響で今年は厳冬。 その真冬の最中、気紛れのように暖かい日の夕暮れ。 換気のために開けていた窓を閉めるため図書室に足を運んだ瞬は、いつのまにか その部屋の中に何かが入り込んでいたことに気付いたのである。 「わっ、なに !? 」 瞬が部屋の窓を閉じ ブラインドを下ろすスイッチを入れた途端、ブラインドに留まっていたらしい それは、ばさばさと音を立てて図書室の上を右へ左へと飛行し始めた。 瞬は それを 最初はスズメかメジロ等の小型の野鳥の類だと思ったのであるが、それにしては、その種類の鳥が この状況で鳴き声の一つもあげないのは奇妙の極み。 それがコウモリだと気付いた途端、瞬は、騒ぎを聞きつけてやってきた星矢に向かって叫んでいた。 「星矢、危ない! コウモリだよ、逃げてっ」 「へ?」 星矢は、その小さな不法侵入者にではなく、コウモリなどという無害な生き物に恐慌をきたしているような瞬の声にこそ、驚いたのである。 これが飢えて冬眠から目覚めてきたヒグマや猛毒を持ったハブ、せめてスズメバチくらいなら、瞬の狼狽ぶりも納得できるが、相手は危険な爪も毒も持たない ただのコウモリではないか。 「おまえ、なに そんなに慌ててんだよ。ただのコウモリだろ。電気つけたまま、窓を開けておけば、そのうち暗いとこに飛んでいくだろ」 「え……」 全く緊張感のない声で星矢に そう言われ、瞬は冷静さを取り戻した。 「あ……そ……そうだね。ごめんなさい。こんなことで大騒ぎして」 仲間に怪訝そうな目を向けてくる星矢に、瞬が場を取り繕うように ぎこちない笑みを向ける。 そうしてから、瞬は溜め息を一つ洩らして、両の肩から力を抜いたのだった。 「図書室に入り込んでいたコウモリに驚いてパニックを起こしたんだって? いったいまた、どうして」 30分後、改めて図書室に向かうと、既に そこには小さな闖入者の姿はなかった。 瞬は開けていた窓を閉め、力ない足取りでラウンジに戻ったのである。 そこには氷河がいて、そして彼は 星矢から図書室でのトラブルの話を聞いていたらしい。 瞬の姿を認めると、氷河は瞬に尋ねてきた。 「あ、ううん。大したことじゃないの。僕、コウモリっていうと、吸血コウモリだと思い込んでいたらしくて」 「どこから、そんな知識を仕入れてきたんだ」 「ポセイドンとの戦いの時――吸血コウモリの習性を模した拳を使う海闘士がいたの」 「吸血コウモリの習性を模した技を使う海闘士? 海闘士なら、コウモリなんて陸の生き物じゃなく、せめてナツメウナギの技くらいにすればいいものを。まったく海に関係ないじゃないか」 「そうだね……」 力無く笑ってから、唇を引き結ぶ。 そして、瞬はぽつりと呟いた。 「僕、イオのことを忘れていた……」 「イオ? それが海闘士のくせにコウモリの拳を使った奴の名か? ああ、そういえば、言っていたな。七つの聖獣にちなんだ拳の使い手だったか」 イオが操っていた技は七つの聖獣の拳ではなく六種類の獣の拳だったのだが、氷河の言を訂正するのも無意味に思えた瞬は、その件には言及せず、浅く頷いた。 「そう、スキュラの鱗衣の海闘士。あの人は、自分に与えられた務めに忠実で――そのために誠実に生き、懸命に戦った海闘士で……悪い人じゃなかった。幸せになっていい人だった。なのに、戴く神が違うっていうだけで、僕は彼を倒した。そんな人のことを、僕は忘れていたんだ。ひどいよね……ひどい」 「瞬」 ここで、『その海闘士のことを忘れていなかったから、おまえは害のないコウモリを吸血コウモリだと思い込んでしまったんだろう』などという言葉を瞬に告げても、彼を忘れていたことに罪悪感を感じている瞬の心が慰められ癒されることはないだろう。 何を言っても無駄なのだ。 瞬を傷付けているものは、瞬自身の考え方なのだから。 氷河は、だから、瞬のために何を言ってやることもできなかったのである。 「きっと、イオは僕のこと 忘れていないよ。恨んで憎んで――ううん、彼は最期に、僕の戦い方は甘いって 僕に忠告してくれたから、彼は僕に対して憎悪なんていう感情は抱いていないのかもしれない。でも、死んでも彼が僕を忘れないのは確かだ」 「それは おまえの勝手な思い込みだ。死んでしまった者の心など、生きているおまえには わからない――誰にもわからない」 氷河のその言葉に、瞬は頷いた。 頷いておきながら、氷河がそんな言葉を口にした意図と目的を、瞬は完全に無視した。 「なのに、僕は忘れてる」 「生きているから、忘れるんだ。それは仕方のないことだ」 「仕方がない?」 それは『仕方がない』の一言で済ませてしまっていいことなのだろうか。 済ませてしまっていいことのはずがない。 瞬はそう思った。 だが、そう思ったということを、瞬は氷河に告げることができなかったのである。 そう告げて、氷河に『なぜだ』と問われた時、彼に答えられる答えを 瞬は持っていなかったから。 代わりに瞬は、氷河の死んでしまった人のことを 彼に尋ねた。 「氷河は、マーマのこと、忘れてない?」 「普段は忘れている」 「そんな自分のこと、ひどいって思わない?」 「思わない」 「どうして?」 「俺がそんなふうでいることが彼女の望みだと思うからだ。彼女は、俺の幸福だけを願ってくれている」 「そっか……そうだね」 『死んでしまった者の心は、生きている者には わからない』と言った舌の根も乾かぬうちに 平気でそんなことを言う氷河の前で、瞬は その目を伏せた。 つまり、氷河は、『何事かを勝手に思い込むなら、生きている者が心の安寧を得られることを思い込め』と言っているのだ。 それは、生きている者に与えられた特権なのだと。 死んでしまった者は、生きている者の勝手な思い込みを否定することはできない。ならば、生きている者は故人の心を自分に都合のよいように思い込んでしまった方がいい――と。 それが賢い人間の 賢い わかっているのに、そういう生き方を選ぶことのできない自分は、愚かで不幸な人間なのだろうと思う。 だが、瞬は、そんなふうな自分の生き方を――それは性癖と言っていいものなのかもしれなかったが――意思の力で変えることはできなかった。 「イオには、家族や 好きな人がいたのかな。僕……ほんとにひどい……」 「おまえは気にしすぎだ。自分を責めすぎるな。自罰的傾向が強すぎると、その人間は最後には――」 『自分を殺してしまうしかなくなる』と言ってしまうわけにはいかなかったのだろう。 氷河は微かに首を横に振って、その楽しくない考えを振り払ったようだった。 「卑屈は傲慢の裏返しと言う。極端な自罰は、それだけ他者からの許しを求める気持ちが強いということで――」 再び、氷河が言おうとしてやめた言葉を、 「見苦しいかな、僕」 瞬が続ける。 氷河は少し苦い顔になった。 「そうは言わん。ただ、おまえが納得できる許しを おまえに与えることのできる者は、生きている者の中にはいない。おまえの望みは決して叶わない。叶わない望みを望むことは不毛だ」 「不毛……確かにそうだね。僕はきっと もう少し生産的になった方がいいね」 「明日、木の苗木でも買いにいくか」 「20年後の したたる緑を期待して? 素敵」 氷河が提案してきた生産的な仕事に、瞬は力無い笑みを返すことしかできなかった。 |