アテナ神殿から天秤宮まで、十二宮のちょうど半分まできたところで、ハーデスは、『明日もまた来る』と言って、彼の嫌いな光の中から いずこへともなく姿を消した。
「明日はもう少し 余に打ち解けてくれ」
そう言い残して。
5メートルの距離を保つ必要がなくなった星矢は、すぐに瞬の許に駆け寄っていったのである。
瞬は、ハーデスの側にいることで 相当の緊張を強いられていたらしい。
見慣れた仲間の姿に安堵したように、全身の緊張を解いた。
そして、自身の素っ気ない態度を悔やむように、
「あの人、本当に聖域と熾烈な戦いを続けてきた神様なのかな……?」
と呟く。

「アテナの結界が張り巡らされている聖域で、好きに消えたり現われたりできるんだぜ。弱っちい神様じゃないのは確かだろ」
「うん……」
人に冷たくすることに慣れていない瞬は、それが“敵”であっても、人に非友好的な態度を示すことが心地悪くてならないらしい。
瞬を支配できると豪語している“敵”に罪悪感を抱いているらしい瞬に、星矢は、
「油断すんなよ」
と釘を刺すことになったのだった。


氷河が“気分”を、紫龍が“理屈”を、瞬が“善意”を、その行動の指針にしているように、星矢は“直感”を、彼の行動の最も重要な指針にしていた。
しかも、彼の直感は滅多に外れたことがない。
その直感が、『ハーデスは胡散臭い』と、しきりに警鐘を鳴らしてくるのだ。
星矢はどうしても、瞬に いつも通りの甘い振舞いを許す気にはなれなかったのである。
それでも、ハーデスが表向きは 攻撃的でなく、害意や敵意を あからさまにしていないことは事実だった。

「我々が見たところ、ハーデスは、確かに聖域を探る意図は持っていないようだったな。ただ瞬を連れまわしたいだけで。その瞬に対する態度も、極めて紳士的だった。物腰は丁寧だし、特に問題になるような発言もなかったな。まあ……口にする言葉は どれも意味深で、聞きようによっては すべてが瞬を口説き落とそうとしている男のそれにも聞こえたが、それらも決して瞬に聖域を裏切らせようとするようなものではなかった」
「んでも、あの上から目線の態度は 滅茶苦茶 嫌味ったらしいぞ。あいつ、どう考えても、人間を無能で非力な虫けら程度にしか思ってねーし。瞬にだってさ、可愛いだの何だのと口では言ってるけど、自分の気に入りの お人形さん程度にしか思ってなさそうじゃん。本人の前で、ヨは瞬を支配できるとか、瞬はヨのものだとか、平気で言っちまうんだから。ただの雑魚と 可愛い雑魚を区別してるだけって感じ」

氷河は、アテナの聖闘士にあるまじきストーカー行為はしたくないが、ストーカーの報告は聞きたかったらしい。
彼は、アテナ神殿でストーカーたちの帰還を待ち受けていた。
ストーカーたちの報告が彼にとって快いものだったのか不快なものだったのかは、その報告をした星矢たちにもわからなかったが。
氷河は、ハーデスに対する彼自身の見解は口にせず、
「瞬が奴の機嫌とりに努めていれば、少なくとも その間は地上は安泰――ということか。気が進まなくても、瞬には しばらく奴の相手をしてもらうしかなさそうだな」
と、話を 一足飛びに“今後の対応”にまで進めてしまったのだ。
「それは――戦いを回避できるのなら、そのためにできることは 何でもするけど……」
いかにもアンドロメダ座の聖闘士らしい瞬の言葉にも、氷河は、
「おまえらしいことだ」
と素っ気なく言っただけだった。

氷河は、もともと口数の多い男ではない。
だが、“クールを標榜しつつ、クールになりきれない男”というのが、氷河に対する星矢の(おそらくはアテナの聖闘士全員の)認識だった。
“仲間の危機に際して冷静ではいられない男”というのが。
その氷河の、突き放すように よそよそしい態度は、星矢には少々 解せないものだったのである。
いずれにしても、星矢は、氷河が素っ気ない分、いつもより饒舌にならないわけにはいかなかった。

「でも、あいつ、見るからに助平野郎だぞ。戦いの回避も大事だけど、変なことされそうになったら、すぐに逃げるんだぞ、瞬。おまえが そんなことまで我慢する必要なんてないんだからな。ただのはったりだろうとは思うけど、あいつ、おまえを自由にできるなんて言ってたし、油断ならない。だいたい、真っ黒で不気味で縁起が悪い。いくら紳士的でもさ、絶対に甘い顔なんか見せるんじゃないぞ。おまえは、ちょっと弱いとこ見せられると、すぐ ほだされるんだから」
まるで幼稚園児に『遠足の注意事項』を言いきかせる保育士のような星矢と、そんな星矢に いかにも自信がなさそうに頷く瞬を、氷河は無言で見詰めていた。






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