「黒い服を着た、すごく綺麗で優しい人なんだ。きっと夢なんだろうと思うけど」 そう聞いていたので、氷河はずっと その人物を女性だと思っていたのだった。 アンドロメダ島で、瞬が 孤独や修行の つらさに耐えられなくなるたび、瞬の前に現われて 瞬を励まし力づけてくれていた“綺麗で優しい人”のことを。 そんな人はアンドロメダ島にはいなかったから、あの人は 僕の弱さや孤独感が作り出した幻なんだろうけど――と、心弱く幼かった頃の自分を恥じるように、だが 懐かしむように、瞬はいつも言っていた。 「天秤宮で氷河を助けた時も、双魚宮で死にかけていた時も、『こんなところで死んではならない』って囁いて、あの人は僕を励ましてくれたよ」 と。 だから、瞬の言う“(幻の)綺麗で優しい人”が背の高い男性だと知らされた時、氷河は大いに驚いたのである。 「男? 女じゃなかったのか?」 「僕、あの人が女の人だなんて言ったことあったっけ?」 「しかし、綺麗で優しい人だと――」 「男の人にだって、綺麗で優しい人はいるでしょう。氷河だってそうじゃない」 「……」 微笑って そう告げる瞬に悪気がないことはわかっていたのだが――それどころか、瞬がそれを賛辞のつもりで口にしていることもわかってはいたのだが、氷河は、今ひとつ その賛辞を喜ぶことができなかったのである。 もとい、どうせ褒めてもらえるのなら、『強い』とか『たくましい』とか、そういう方面で褒められたいと、彼は思った。 「綺麗で優しい背の高い男、ね。いったい どこから そんなものが湧いてきたんだ。アテナの聖闘士を励まし力づけてくれるものといったら、普通は まずアテナが出てくるものだろう」 「アテナ? そうだね。あの人は、ずっと僕を見守ってくれていた神様なのかもしれない」 いつも瞬の側に寄り添い、瞬を励まし力づけていた“綺麗で優しい人”(の幻)が実は男だったと知らされた途端、その幻に妬心を覚え始めた自分に、氷河は顔には出さず胸中で苦笑していた。 女性なら嫉妬しないのに、男なら嫉妬する。 瞬に恋する男として、これは真っ当な反応なのだろうかと、自身の心を疑いながら。 氷河が初めて 瞬から その黒衣の男の話を聞いたのは――その時には まだ、氷河は その人物を女性だと思っていたのだが――瞬の兄が裏切者として、彼の弟と仲間たちの前に姿を現わした時だった。 兄の変貌に愕然とし、兄に拳を向けられたことが信じられず、嘆き、打ちひしがれていた瞬。 青銅聖闘士の許に一輝から『黄金聖衣を持参して殺生谷に来るように』という連絡が入った時、氷河は瞬に『おまえは行かなくていい』と告げに行った。 その頃にはまだ、氷河の中にある瞬の人物像は“心弱く泣き虫の子供”で、氷河のその言葉は瞬への思い遣りというより、侮りに近いものだったかもしれない。 しかし、瞬は、 「氷河たちと一緒に行くよ」 と言って、その首を横に振った。 「いつも僕を見守ってくれていた人が現われて、『泣かないで』って言ってくれたの。『君を悲しませるなんて、ひどい兄さんだ』って。『私なら、そんなことはしないのに』って。そして、行かないと僕が後悔することになるかもしれない――って」 「瞬……?」 いったい瞬は急に何を言い出したのか。 悲しみのあまり 瞬は正気を失ってしまったのかと疑い、氷河は初めて本気で深刻に瞬の心身を案じたのである。 だが、瞬は、それが自分の心が作った幻だということを自覚していた。 「あんなに優しかった兄さんが、どうしてあんなふうになってしまったのか、僕は知りたい――確かめたい。僕は一緒に行くよ、氷河たちと」 涙で潤んだ瞳――だが、正気の目をして、瞬はそう言った。 そうして、仲間たちと共に殺生谷に向かった瞬は、そこで彼が知りたかったことを知ったのである。 強く優しかった兄の心が、弟を憎み 弟に拳を向けるほどの変貌を遂げてしまった理由を。 瞬が知りたかったことは、氷河にしてみれば、だが、あまりにありきたりなことだった。 愛する人を失った。 それは、誰もが経験する苦しみと悲しみである。 もちろん、一輝の つらい気持ちも悲しい気持ちも わかる。 それは無力感を伴う つらさ悲しさで、自分の意思や力ではどうすることもできないものだからこそ、人はその感情の対処に悩み迷うのだ。 だが、その苦しみを憎しみに変えて弟に向け、弟を傷付けることによって癒そうとする行為は 卑劣極まりなく、惰弱極まりない行為。 そう、氷河は思った。 そんな弱い兄を、瞬はあっさり許してしまったが。 というより、瞬はむしろ、兄の悲嘆と悲運に責任を感じ、兄を責めることなど思いもよらなかったようだった。 殺生谷で死んだと思われていた瞬の兄が生還し、瞬が以前のように兄を慕い始めるのを見て苛立ち――むしろ、簡単に兄を許してしまう瞬に苛立って――氷河は、一度 瞬の兄を責めたことがあった。 「孤独の中で つらい修行に耐えたのは誰も同じだ。瞬は特に、貴様に負い目を感じて、貴様以上につらい思いをして聖闘士になったはずだ。にもかかわらず、自分だけが苦しんだと思い込み、あまつさえ瞬の命を奪おうとまでした貴様が、よく平気で兄貴面をして瞬の側にいられるものだ」 という、皮肉と侮蔑の入り混じった言葉で。 それは単なる事実で、一輝に反論することはできない。 何か言えば、それは他人や環境への責任転嫁にならざるを得ない。 当然 一輝は沈黙の答えを返してくることになるだろうと 氷河は思っていたのだが、一輝は氷河の糾弾に、まるで敵の意表を衝くような話を持ち出してきた。 「おそらく幻なんだろうと思うが――悪魔のように不吉な黒衣の男が現われて、俺に毎日囁いたんだ。『おまえの弟がもう少し強い人間だったなら、おまえは この島に来ることはなかった。エスメラルダも死なずに済んだ。しかも、おまえの弟は偽のアテナにそそのかされて聖域に歯向かっている。命を断ってやった方が、弟のためかもしれないぞ』と」 「なに?」 一輝は、自らの罪と責任を減ずるために そんな話を持ち出したのではないようだった。 おそらく一輝自身が その“黒衣の男”の存在を疑っていて、彼は そんなことが本当にあり得るか否か、自分以外の人間の意見を聞こうとしたのだ。 一輝の様子は、氷河には そう見えた。 氷河に 痴れ者を見るような目を向けられると、一輝はすぐに 首を横に振って、その顔に自嘲の笑みを浮かべたが。 「何を言っても、言い訳でしかないな。俺は自分の力を過信していた。力というものを誤解していた。憎しみほど強い力はない、俺がおまえたちに負けるはずがない、とな。俺は、おまえたちに負けて、やっと目が醒めた。俺は相当 愚かな男のようだ」 彼らしくなく、素直に殊勝に 己れの非を認める一輝を、おかげで氷河は責めにくくなってしまったのである。 「俺たちに負けたから目が醒めたわけじゃないだろう。おまえは昔から、瞬の涙に弱かった」 一輝が苦く笑ったのは、それが認めざるを得ない事実だったからなのだろう。 潔く自分の弱さを認めることは――しかも自嘲の笑みを浮かべながら認めるというのは、卑怯が過ぎることだと、氷河は思ったのである。 そんなことをされてしまったら、彼を責めた人間は 逆に慰撫の言葉を口にしなければならなくなるではないか。 「まあ、よかった。瞬が明るく笑うようになってくれた。あんなふうに瞬に明るい笑顔を作らせることは、俺にはできなかった」 精一杯の皮肉。 瞬に明るい笑顔を作らせることのできる幸せな男は、はたして それが皮肉だと気付いたのかどうか。 「瞬の涙を見ずに済むのなら、瞬の涙を止める奴は誰でもいい」 結局、瞬の心から翳りを取り除くことができるのは 兄であるおまえだけなのだと、負け惜しみのような皮肉を言うことしか、氷河にはできなかった。 その時、一輝が語る“黒衣の男”と、瞬が語る“綺麗で優しい人”の間の奇妙な一致に、氷河は気付かなかったわけではなかった。 しかし、一輝は それを悪魔のように不吉で黒い“幻”と言っていたし、瞬は 自分の弱さや孤独感が生んだ“幻”だと言っていた。 無力感から来る やるせなさに意識と感情を囚われていた氷河は、人の心の中にあるネガティブな思いが作り出すイメージというものは似通うものなのだろうと軽く考え、その時 兄と弟が見た二つの幻を結びつけることをしなかったのである。 当然、氷河は その時、一輝に捩じれた悪心を吹き込んだ黒衣の男が どんな男なのかも確かめなかった。 その男がどんな様子をした男なのかを知ったところで、瞬が兄を慕い続けるだろうことに変わりはなく、瞬の兄に対する自分の妬心が消えるはずがないことも わかっていたから。 もし あの時、その男の様子を尋ねていたら、一輝は『綺麗な顔をした冷ややかな目の男だった』と答えていたに違いないと、氷河は思ったのである。 その男が、今 氷河の目の前にいた。 |