海神ポセイドンとの戦いが終わった、静かな夜だった。 何か不吉な予兆でもあったのか、あるいは逆に 聖域再建のための建設的な多忙のせいなのか、アテナは聖域に詰めきりで、城戸邸には もう1ヶ月近く戻ってきていない。 決して戦いを望んでいるわけではないのだが、戦いの日々に心身が慣れてしまったのか、氷河は最近、静かで穏やかな夜を あまり好ましく思えなくなっていた。 地上や人間の未来や現在を切実に案じる必要のない静かな夜は、普段は彼の奥底に眠っている様々な思いを意識の上に浮かび上がらせる。 たとえば瞬が白鳥座の聖闘士の思いにも視線にも気付いてくれないこと、白鳥座の聖闘士が瞬にとっては仲間の一人でしかないこと、兄だけを特別な存在として瞬が慕っていること。 平和で静かな夜には、そんなふうな あまり楽しくない思いばかりが氷河の胸中で去来を繰り返すのだ。 戦って 生き永らえることだけに気持ちを向けていられる日々の方が よほど心穏やかでいられると、氷河が自棄のような思いに囚われ始めていた時。 時間を鬱々として楽しめずにいた氷河の前に、その男は ふいに現われたのだった。 瞬や一輝が言っていたように、幻のようにぼんやりと。 そして、不意打ちのように忽然と。 若いようにも見えるが、途轍もなく長い年月を生きてきた老人のようにも見える漆黒の瞳と端正な面差し。 紫龍ほどではないが、肩に流れる程度には長く黒い髪。 そして、大時代的な裾の長い黒衣。 もし彼が現れたのがセキュリティ完備の深夜の城戸邸ではなく 日中の街中で、彼が身に着けている衣服が現代人のそれだったなら、氷河は彼を葬式帰りの憂鬱な青年と思っていたかもしれなかった。 それも冠婚葬祭のマナーを よく わきまえていない若い男である。 氷河が『誰だ』と問う前に、その黒衣の男は、冷ややかに抑揚のない声で、挨拶どころか いかなる前置きもなく、彼の口上を語り始めた。 「おまえは悔しくないのか? 散々自分を傷付けた兄を慕う瞬を見て。フェニックスが裏切者としておまえたちの前に現われた時も、奴が死んだと思われていた時も、瞬を庇い支えていたのはおまえだったというのに」 挨拶も名乗りもなく突然 そう問われてしまったせいで、氷河は彼に 名を問う前に、氷河は、彼から発せられた問いの答えを考え始めてしまっていたのだ。 それは悔しい。 もちろん、悔しいに決まっている。 血のつながった兄というだけで、その価値もないのに 瞬にあれほど慕われる一輝という存在を理不尽だとすら思う。 だが、それは どうにもならないことである。 他の誰でもない瞬自身が、それを望んでいるのだから。 「仕方あるまい」 「諦めがいいな。愛してくれるのは結局 肉親だけということか。瞬も、おまえも」 瞬が言っていた通り、彼は美しい男だった。 その顔が完全にシンメトリーに見えるのは、おそらく 彼がどんな感情も表面に出していないから。 負の感情が その顔を歪めることも、正の感情が その顔を緩ませることもしていないからのようだった。 その男は、黒衣と共に、アルカイック期のギリシャ彫刻のように捉えどころのない表情を その身にまとっていた。 「俺にはもう肉親はない」 『愛してくれるのは 肉親だけ』なのであれば、自分を愛してくれる者は この世界には誰もいないことになる。 黒衣の男の言葉を真実と認めたくないのか、あるいは いっそ開き直って認めてしまいたいと思っているのか――。 自分の気持ちがわからないまま、氷河は事実だけを口にした。 そんな氷河を意味ありげに見詰め、黒衣の男は 思いがけないことを語り始めた。 「おまえの母親を蘇らせる方法がある」 「なに」 「いや、やはり無理か。おまえに その勇気はあるまい」 それが わざとらしい挑発だということは、氷河にも感じ取れていた。 だが、彼の言葉があまりに思いがけないことだったせいで――否、絶対にありえないことだったから――氷河は つい彼に尋ね返してしまっていたのである。 「どうすれば、マーマを蘇らせることができるんだ」 と。 氷河の反問を聞いた黒衣の男が、初めて表情らしきものを その顔に浮かべる。 薄い微笑。 それは正しく北叟笑みだった。 氷河の目には、そう見えた。 「私は冥界から来た。おまえの母親のたっての頼みで」 冥界から来たということは、この男は死者なのか。 だから、忽然と、幻のように現われたのか。 そして、この黒衣の男は 瞬や一輝の前に現われた男と同じ男なのか。 頭の中に幾つも浮かび上がってくる疑念を無視して、氷河は彼に全く別のことを問うていた――問わずにいられなかった。 「マ……俺の母の?」 男が、静かに頷く。 「彼女は、おまえに会いたいと 悲しそうに言っていた。本当はいつまでも おまえの側で、おまえを見守っていたかったと」 「そ……そんな話が信じられるか! 貴様は死人か? 幽霊か? それとも悪魔なのか? だから死んだ者と話ができるのか? 貴様の話が事実だったとしても、俺がマ……母に会うには、俺が死ぬ以外に方法はない」 「おまえの母を蘇らせる方法があると言ったろう。おまえは死ななくても、おまえの懐かしい母に会うことができる。瞬に、おまえの母の魂を宿らせれば」 「なにっ !? 」 冥界から来たというだけでも眉唾物なのに、なぜ ここで白鳥座の聖闘士の母親を直接知らない瞬が登場してくるのか。 瞬の名を出された途端に 氷河の心と意識は急激に熱を失い、そして 彼は冷静さを取り戻したのである。 完全に冷静ではなくとも、この男には慎重に用心深く当たらなければならないと、自身に自重を促すことはできるようになった。 「瞬の身体におまえの母の魂を宿らせれば、おまえの母は蘇る。おまえは、母の心と瞬の身体を同時に手に入れることができるんだ」 「何を言っているんだ。そんなことができるわけが――」 「そのために――瞬を生きたまま、冥界に連れて来い」 「馬鹿な。他人の魂を、しかも死んだ者の魂を、生きている者の身体に宿らせることなどできるはずがない!」 「瞬ならできるのだ。地上で最も清らかな魂を持つ瞬だけができる。他の誰かでは、その身に入り込もうとした魂の方が、その者の汚れに負け、侵され、消滅するしかないが、瞬は……特別な人間だから」 「……」 荒唐無稽な話と笑っていただろう。 それが瞬にだけ可能なこと、瞬は特別な人間なのだという、黒衣の男の言葉がなかったら。 氷河にとって瞬は、この地上に生きて存在する人間たちの中で ただ一人、まさに特別な存在だったから、氷河は彼の荒唐無稽な話を完全に ありえないことと切って捨てることができなくなってしまったのである。 「おまえの母の心。おまえだけを見詰める瞬の瞳。おまえは、その二つを同時に手に入れることができるんだ。そんな弟の姿を見たら、あの自分勝手な兄は さぞかし驚くだろうな。最愛の弟を おまえに奪われてしまったと、地団駄踏んで悔しがるに違いない。痛快だな」 黒衣の男の言葉は、確かに痛快だった。 これまで氷河の胸に溜まっていた溜飲を下げるものだった。 だが――。 「そんなことをして――もし そんなことが本当にできたとして、その時、瞬の心はどうなるんだ。瞬の心はどこに行くんだ」 「瞬の心は、おまえの母の心と溶け合って一つになり、おまえを愛するようになるだろう。おまえは、母であり、恋人であり、一瞬の躊躇もなく命を預けることができるほどの信頼を抱く友でもある、最高の愛の対象を得ることになる」 「どうすれば、瞬を生きたまま冥界に連れていくことができるんだ」 知らなくていいこと、知らずにいるべきこと――を、不吉な黒衣の男に尋ねながら、俺は何をしているんだと、氷河は自分自身を責めていた。 そして、この男は悪魔なのか 死神なのかと、誰かに向かって問うていた。 「瞬が冥界に行くことを望めばいいだけだ。瞬に、冥界に行きたいと思わせればいいだけ。そう仕向けるだけで、おまえは すべてを手に入れることができる」 「そんなことは――」 『できない』と、もちろん氷河は言おうとしたのである。 黒衣の男は、まるで その言葉を氷河に言わせないことが 自分の思い遣りだと言わんばかりに 優しく微笑みながら、氷河の言を遮った。 「まもなく、冥府の王ハーデスが 243年振りの覚醒を果たし、アテナとの聖戦を開始する。この地上を醜い人間のいない闇の世界にすることを目論んで。いずれにしても、聖域と冥界が その主戦場になり、最終的に おまえたちは冥界に向かうことになるだろう。そして凄絶な戦いが始まる。前聖戦を知っているか? 当時、聖域には80人近い聖闘士が揃っていた。そして、その聖闘士たちがほぼ全員 命を落とした。今度の聖戦は、その時以上に、聖域にとって過酷なものになるだろう。現在の聖域は、白銀聖闘士のほとんど、黄金聖闘士半数を欠いている」 「だから どうだというんだ」 だからアテナがハーデスに負けるとでもいうのか。 この地上が死者の国の王の支配下に置かれるようになると。 この男の予見に 理に適った根拠があり、その予見が99パーセントの確率をもって実現するものだったとしても、氷河は彼の予見を受け入れることはできなかった。 アテナの聖闘士は、勝利の可能性が1パーセントしかなくても、その1パーセントに賭けて戦い、そして勝利することを続けてきたのだ。 「私はもちろん、聖域がハーデスに敗北を喫し、この地上が闇の世界になることを望んでいるわけではない。ただ、万一そんな事態になった時、おまえの母の魂を受け入れていれば、瞬だけは死なずに済むということだ。ハーデスが完全な復活を遂げていない今のうちに瞬を冥界に赴かせることは、瞬のためにもなる。そのついでに おまえの望みも叶うというだけのこと。ああ、もちろん、ハーデスとの聖戦の間、おまえの命はおまえ自身が守らなければならないぞ」 「貴様は いったい何者なんだ! 俺と瞬の未来を勝手に決めるな!」 己れが何者なのかということも語らない男の言うことを 素直に信じることなどできるはずがない。 もし この男が いつも瞬を見守り励ましていた“綺麗で優しい人”なのだとしても――だとしたら、なおさら――氷河は彼の存在と彼の言葉を疑わないわけにはいかなかった。 「息子を思う おまえの母の心に胸を打たれた者だ。そして、瞬の命を惜しむ者」 「俺が知りたいのは――」 氷河が知りたいのは、そんなことではなかった。 なぜ彼は これほど冥界と その主であるハーデスの事情に通じているのか、生きている者なのか死んでいる者なのか、アテナの聖闘士の敵か味方か、そして、何が目的でこんなことをするのか――ということだった。 それらが明白にならなければ、彼の言葉も信じられない。 母が蘇る――瞬の肉体を借りて母が蘇る。 それが瞬の命を守ることにもなる。 この男の素性と目的がはっきりしなければ、彼の語る事柄のどんな小さなことにも信を置くことはできない。 だが、彼は、氷河の詰問には 何一つ答えを返そうとはしなかった。 これはアテナの聖闘士への思い遣り、そして親切な忠告――と言わんばかりに、優しく穏やかに見える表情を浮かべているだけで。 「必ず、生きたまま瞬を冥界に連れてくるのだ。それも できるだけ早い方がいい。ハーデスの力は、真の復活の時に向けて 日に日に強大なものになっている」 告げるべきことは告げたということなのか。 氷河がもう一度 食い下がろうとした時、たった今まで確かに氷河の目の前にいた男の姿は消えてしまっていた。 幽霊か、あるいは悪魔のように忽然と。 幻影か、あるいは夢のように朦朧と。 氷河を混乱させたのは、だが、彼が尋常の人間には到底 為し得ないような消え方をしたからではなかった。 そうではなく――氷河は、彼が残していった言葉と、その言葉の真意を掴み切れないことに 混乱していたのである。 でなければ――黒衣の男の尋常のものとは思えない消え方に驚いていたのであれば――氷河は注意深く周囲を観察し、五感を研ぎ澄まして、 「フェニックスのところにも行っておくか」 という、黒衣の男の呟きを聞いていたはずだった。 彼はわざと――氷河に自分を怪しんでほしくて、その呟きを氷河の部屋に残したのだから。 だが、氷河は、彼の置き土産に ついに気付くことはなかったのである。 |