そんなことができるわけがない。
たとえそれが本当に瞬の命を守ることになるのだとしても、瞬を生きたまま死者の国に連れていくことなど。
母を蘇らせるために その身体を提供してくれと、瞬に頼むことなど。
だが、ならばなぜ自分は昨夜の出来事を ただの夢として忘れてしまうことができないのか――。
「氷河? どうかしたの?」
翌日、自分で自分の本意がわからないまま、庭に大きく開いた窓から室内に入り込んでくる冬の午後の陽射しを ぼんやり眺めていた氷河は、ラウンジに入ってきた瞬に 困惑した様子で問われ、はっと顔をあげたのである。
「あ、いや……何でもない」

“綺麗で優しい人”というのなら、氷河にとっては 瞬こそがそうだった。
あの黒衣の男も整った顔立ちと 優しげに聞こえる口調と表情を持っていた。
にもかかわらず、瞬と あの男の印象は 正反対と言っていいほどに違う。
光と闇、希望と絶望ほどに違う。
氷河があの男に対する不審の念を払拭できないのは、そのせいもあった。
彼が、あまりに瞬と対照的だったから――。
そんな人間を、どうすれば信じられるというのか。

「おまえこそ、どうした。まるで真っ昼間に幽霊でも見たような顔をしているぞ」
「あ……うん……」
『どうかしたの』というのは、実は瞬が氷河に投げかけてほしいと思っていた言葉だったらしい。
望んでいた言葉を氷河に与えられ、瞬は ほっとしたように小さな吐息を洩らした。
「あの人に、今日会ったの。この……城戸邸の庭で、さっき」
「なに……?」
『あの人』とは、“綺麗で優しい”あの黒衣の男のことだろうか。
これまでは苦々しい妬心を感じながら聞くことの多かった黒衣の男のエピソード。
氷河は、今日は それを、いつもと違う緊張感に支配されながら聞くことになった。

「いつもと何かが違う感じだったんだ。僕を心配してくれてるみたいなのは いつもと同じだったんだけど、僕には よく意味のわからないことを言って……。そんなこと ありえるのかな。あの人は、僕が作った幻影のはずなのに――」
「何を言ったんだ! あの男は、おまえに!」
もし瞬の“綺麗で優しい人”が、昨夜自分の前に現われた男と同じ人物なのであれば、それは絶対に瞬の心が生み出した幻影などではない。
幻影のように現われ消えることはするが、あれは確かに 自らの意思と思考力を持った一個の何かだった。
その一個の何かが、瞬を戸惑わせるような何事かを瞬に告げた。
それまで投げ出すように身体を預けていた肘掛け椅子から勢いよく立ち上がり、氷河は、瞬の両の腕を掴んで、半ば怒鳴りつけるように瞬を問い質した。
あの男が、昨夜 白鳥座の聖闘士に告げたことと同じことを瞬にも告げていたなら、氷河はすぐにも その言葉を否定してやらなければならなかったのだ。
だが、氷河の懸念は無用のもの――むしろ、全く方向違いのものだった。

黒衣の男は、瞬に、
『冥界に来てはならない、絶対に。その清らかな魂を消し去りたくなければ。私は消し去りたくない』
と、氷河に告げたこととは全く逆のことを、瞬に告げたらしい。
「冥界に来るなって言われたって、そんなところに どうすれば行けるのか、僕にはわからないし……。冥界って、生きている人間には行けないところでしょう? なぜあの人は そんなことを言い出したの。あの人は僕自身じゃないの……」
自分の心が作った幻影と思っていたものに、自分なら決して言わないようなことを言われたせいで、瞬は混乱しているらしかった。
もし あの男が 人間の弱い心が作り出した幻影でないのなら、彼はいったい何者なのかと。

瞬の報告を聞いて、氷河もまた混乱していた。
白鳥座の聖闘士とアンドロメダ座の聖闘士に 真逆のことを言う男。
では、瞬の言う“綺麗で優しい人”と、自分が昨夜会った黒衣の男は別人なのか。
それとも、たとえば、双子座の黄金聖闘士がそうだったように、あの男は2つの相反する人格を有した人間なのか――と。

来て・・はならない』と彼に言われた瞬は、あなたはそこにいるのかと問い返したらしい。
黒衣の男は、『私は君に何をするかわからないから、来ないでくれ』と答えた。
あまりに彼が つらそうな様子をしているので――問われたことに答えるのも つらそうな様子をしているので――瞬はそれ以上のことを彼に問うことができなかったらしい。
「もし あの人が僕の心が作った幻でないなら、名前があるはずだと思って、僕、あの人に名前だけ訊いてみたの」
「名乗ったのか?」
「うん。パンドロス――って言ってた。すべての贈り物を与えられた者、すべての神々からの人間への贈り物っていう意味なんだって。僕たちには パンドロスよりパンドラの名の方が耳に慣れた名前だろうから、そっちの名前で呼んでくれて構わないって」

「パンドラ? パンドラの箱のパンドラか?」
「そう。最後に希望だけが残った、希望しか残らなかったパンドラの箱の持ち主と同じ名前だって。あの人、自分の名前を嫌ってるみたいだった。つらそうで……」
名前より、あの男が何者なのかを訊いてほしかったと、本音を言えば 氷河は思ったのである。
白鳥座の聖闘士には答えないことも、瞬になら、あの男は答えたかもしれなかったのに――と。
名を名乗ることにさえ つらそうな様子を見せる人間を質問攻めにできる瞬ではないことは、氷河もわかっていたのだが。

「僕、ずっと、あの人は 僕の心が作り出した幻なんだと思っていたんだけど、今日のあの人は――」
「まるで生きて この世界に実在する人間のようだった……?」
「うん……」
瞬が不安そうな目をして、すがるように氷河の顔を見上げてくる。
瞬の周囲で何か異変が起ころうとしている。
もしかしたら それは、もう何年も前から――あるいは、瞬が生まれた時にはもう始まっていた、運命のようなものなのかもしれない。
瞬の不安は おそらく自分を失うことへの漠然とした不安で、瞬の不安は氷河をも不安にした。

「おまえは おまえとして、ここにいるんだ。いつまでも」
まるで自分に言いきかせるようにそう言って、瞬の身体を抱きしめる。
突然 仲間を抱きしめてきた氷河に、瞬は、当然のことながら ひどく驚いたらしい。
だが、瞬は、氷河の胸と腕から逃げようとはしなかった。
「うん。ここにいる」
そう答えて、瞬は、氷河の胸に頬を押しつけてきた。






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