筒井筒つついづつ

〜 凛さんに捧ぐ 〜







紺色のスーツを身に着けた瞬がラウンジに入ってきたのは、春分には少し早い春の日の夕暮れ。
その数分前に、城戸邸正面玄関の車寄せに黒塗りのリムジンが滑るように入ってくるのを見ていた星矢が、瞬が『ただいま』を言うより先に、
「お疲れー」
の一言で、一仕事を終えて帰宅した仲間をねぎらう。
瞬は、星矢のねぎらいに数秒遅れて、仲間たちに帰宅の挨拶を告げてきた。

瞬は確かに一つの仕事を終えて帰宅したところだったのだが、氷河の目には、特段 瞬が疲れているようには見えなかった。
それでも星矢が瞬に ねぎらいの言葉をかけ、あまつさえ同情の眼差しまでを仲間に向けていくのは、その仕事が もし自分に任されていたなら、その仕事は尋常でなく自分を疲れさせていただろうと、星矢が信じているからなのだろう。
「グラード財団の若き女総帥がオトコと連れ立っていると、あれこれ勘繰られて鬱陶しいのは わかるけど、おまえ、すっかり沙織さんの お守り役にさせられちまったな。で、今日は何だったんだ? クラシックコンサート? バレエ? オペラ?」
「お能だよ。でもね、星矢」

グラード財団総帥のエスコート役が主に瞬の仕事になったのは、沙織が男性と同伴することによって あらぬ噂を立てられることを避けるためではなく、瞬の仲間たちがその仕事を嫌がるからである。
特に、天馬座の聖闘士が、何としても その仕事を拒絶するから。
その事実を星矢に告げ、思い出させ、彼に反省と現状の改善を促そうとしたのだろうが、残念ながら、瞬はそうすることはできなかった。
瞬が沙織と共に出掛けた先で行なわれたイベントが能だったと聞いた星矢が、日本が世界に誇る伝統的舞台芸術を、
「能〜 !? うわ、最悪〜!」
の一言で評してくれたせいで。
瞬に遅れてラウンジに入ってきた沙織が、星矢の大声を聞きつけて、明確に不機嫌な顔になった。

「素晴らしい舞台だったわよ。とても美しくて――幽玄とは まさにあのことね。星矢も少しは優れた芸術に接して、自分の美意識を磨くことを考えた方がいいわ。戦いしか知らない戦闘馬鹿なんて、自分で自分の人生を貧しくしているようなものよ」
それは アテナの聖闘士たちに美しく豊かな人生を過ごしてほしいと願う、言ってみれば アテナの親心から出た言葉だっただろう。
が、その親心(?)に対する星矢の答えは、
「ウツクシクテも腹は膨れないからなー」
というもの。
親の心を知らない子の放言に、沙織はその顔に浮かべていた微笑を僅かに引きつらせた。
その様子を見てとって、瞬が慌てて 沙織と星矢の間に割っていく。
もっとも、そのまま二人の間に留まっていられるほどの強心臓の持ち主ではない瞬は、すぐに その危険地帯から我が身を遠ざけることをしたが。

「風が強くなってきたよ。この時季の夕暮れに南風って珍しいね。春一番……ううん、もう二番か三番くらいかな」
言いながら、ラウンジで一ヶ所だけ開いていたフランス窓に歩み寄り、瞬はその窓を閉めようとした。
途端に 暖かい南風がそこから吹き込んでくる。
決して沙織の同伴者を女性に見せようと意識して切らずにいるわけではないのだろうし、紫龍の長髪に比べれば 控え目なものだったのだが、一般的男子のものとしては少々長めの瞬の髪は、その強い南風に煽られ、かき乱されることになった。
「わっ」
「俺が」
春の突風に驚き、思わず声を上げた瞬の背後から手を伸ばし、氷河が 瞬の代わりに その窓を閉じてやる。
その直前に入り込んできた南風は、室内の中心に空気の渦を作り、それは やがて小さくなって消えていった。

「あ、ありがと、氷河」
「いつのまにか、かなり伸びたな。結んだらどうだ」
「え?」
自分の背後に立っている男が何を言っているのか、瞬にはすぐにはわからなかったのだろう。
視線を会わせずに――表情を確かめられない状況で告げられる言葉というものは、そうでない場合に比べると格段に 相手の真意や意図を掴みにくいものである。

氷河が 瞬の髪を一房 その手ですくいあげたのは、それゆえ、変な下心があってのことではなく、自分が話しているのは 春の風に乱れてしまった瞬の髪のことだという事実を瞬に伝えるためだった。
「俺が結んでやろうか。おまえの髪は腰がなくて やわらかいから、自分でまとめようとすると――」
「だめっ!」
氷河には いかなる下心もなかったのである。
にもかかわらず、瞬は、その髪に氷河の手が触れた途端、まるで髪に神経が通っててるのではないかと思えるほど、大袈裟な――むしろ異常に思えるような――反応を示してきた。
一度 大きく身体を震わせたかと思うと、その髪を左右に振り、氷河の脇を すり抜けるようにして、瞬は氷河の手が届かないところにまで飛びすさったのだ。

「瞬……?」
まさか瞬の逆鱗が 髪にあったわけではあるまい。
瞬の過剰な反応に驚き 我知らず肩を強張らせた氷河は、そこに、瞬の怯えたような色の瞳を見い出して、その目を見開くことになった。
自分の振舞いが 尋常の反応とは言い難いものだということを認識してはいるらしい瞬が、そんな氷河から気まずげに視線を逸らす。
「あ……僕、これ着替えてくるね……」
そして、瞬は、髪に触れられたことくらいで なぜそんな奇矯な反応を示すことになったのか、その訳を氷河に告げることなく、逃げるようにラウンジを出ていってしまったのだった。






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