翌日、早速 行動を開始しようとした氷河に、まず沙織の推察が的を射たものであるのかどうかの確認をすべきだろうと提案してきたのは紫龍だった。 瞬が本当に、“髪上げ”なる昔の成人・成婚のイベントを意識して、氷河に髪を触らせないのかどうかを確かめることが先決だと。 昨日の瞬の拒絶が 沙織の推察とは全く違う理由によるものだったなら、氷河が瞬に髪を上げさせるべく画策することは、そもそも無意味なことになる。 その確認を怠ることは、アテナの聖闘士の前に現われた神が邪心を抱く者か否かを確かめずに攻撃を仕掛けるようなもの。 もしその神がアテナとアテナの聖闘士たちに好意的な神だった場合、アテナとアテナの聖闘士たちは 自ら、真の邪神を利する愚を犯したことになるだろう。 そういう事態は避けるべきだと、紫龍は主張してきたのである。 紫龍の主張は至極尤もなことに思われたので、氷河も彼に異を唱えることはしなかった。 「確かに……。瞬は、単に髪に触られるのが嫌なだけだったということも考えられるな。特に 髪上げなる行為を意識しているわけではなく、俺だけでなく誰にでも髪に触られたくなかっただけということは、大いにあり得る」 もし そうだった場合、瞬に髪上げさせるべく画策することは、瞬が嫌がることを無理強いするも同然の行為。 それで瞬に嫌われるようなことになったら、それこそ本末転倒というものである。 氷河も、そんな事態は避けたかった。 「あ、そういうことなら、俺が確かめてやるよ。俺が瞬の髪に触ろうとして、瞬がそれを嫌がったら、瞬は氷河に限らず誰にでも髪に触られたくないだけで、俺が髪に触るのを瞬が許してくれたら、瞬が嫌いなのは髪に触られることじゃなく、氷河に触られること。んで、実は瞬は俺に気があるってことになるわけだ」 「なぜ そういうことになるんだっ!」 「え? なるだろ?」 「なってたまるかっ!」 親切心から仲間への協力を申し出たつもりだった(らしい)星矢を、氷河は思い切り怒鳴りつけた。 なぜ怒鳴られるのか解せないという顔で、星矢が眉をひそめる。 そんな星矢に、氷河は、彼の確認方法では、瞬が髪上げなる行為を意識してるのかどうかを確かめることにはならないこと、それ以前に、瞬を熱烈に恋している男に許さないことを、色気より食い気のガキに 瞬が許すはずがないということを、こんこんと説いて聞かせようとしたのである。 が、残念ながら、氷河はそうすることができなかった。 ちょうどラウンジに入ってきた瞬の姿を認めた星矢が、勝手に彼の確認行為を開始してしまったせいで。 「瞬ー! メイド頭のおばちゃんが、おまえを捜してたぞ。エントランスホールの大花器に梅を飾りたいから、庭の梅の木から適当な枝を見繕ってほしいんだと」 「梅の枝? 大事なお客様でも来るのかな?」 「さあ、そこまでは聞かなかったけど。テキトーでいいのなら、俺が取ってきてやるって言ったんだけどさ、俺がテキトーに選んだ枝じゃ駄目なんだとよ」 「そりゃあ、お花は、それぞれの役枝の長さの比率を考えなきゃならないし、花のつき方で どう使うのがいいのかを判断しなきゃならないし――無考えに折ったら、梅の木もかわいそうだし……」 「そーゆーもんか? ま、いいや。でさ、今日も風が強いからさ、これ使え、これ」 星矢は、どう考えてもメイド頭に頼まれていた伝言を、今の今まですっかり忘れていたのだろう。 たまたま瞬の髪に触る口実が必要になって、今 突然思い出したに違いない。 ともあれ、そう言って星矢が瞬の前に差し出したのは、小さなピンク色のヘアクリップだった。 星矢の手の平の上にあるものを見て、瞬が首をかしげる。 「あ……ありがとう。でも、これ、どこから持ってきたの?」 「これ? 厨房のおばちゃんが、こーゆーの、腐るほど持ってるんだ。おばちゃん、うどんフリークでさ。麺類食う時、髪の毛って邪魔だろ。お店の雰囲気に合わせて、髪留め変えるんだと。おばちゃん、意外とおしゃれでさ。ほら、ここ座れ。このペガサス星矢様が じきじきに、おまえの髪をまとめてやる」 「う……うん……」 かなり不安そうではあったが、星矢の指し示した籐椅子に瞬が腰をおろしたのは、瞬が否応を言わせぬ星矢の強引さに逆らうことができなかったというより、星矢の強引を親切と解した瞬には 仲間の親切を拒むことができなかったから――だったろう。 いずれにしても、そうして瞬は、どう考えても人間の髪の扱いなど知らない星矢の手に、その髪を大人しく委ねてしまったのである。 それが事実、そして現実だった。 瞬の やわらかい髪が、見るからに不器用そうな星矢の手に無造作に掴みとられる様を、氷河は、呆然と見詰めることになったのである。 なにしろ、この事実、この現実は、穴だらけの星矢の理論によれば、“実は瞬は星矢に気がある”という結論を提示していることになるのだ。 「おい……氷河、大丈夫か」 星矢の手の中にある瞬の ひと房の髪を呆然と見詰めている氷河の様子を見かね、更に、星矢のまとめた瞬の髪の悲惨さを見かねた紫龍が、氷河から思考力を奪っている二人の側に歩み寄る。 「瞬、俺がまとめてやろう。髪の扱いは慣れている」 そう言って、紫龍が星矢の手から瞬の髪とピンクのヘアクリップを預かったのは、鏡で確かめなくても自分の髪が悲惨なことになっているのを感じ取っているらしい瞬の心を安んじさせるため、そして、呆然自失状態の氷河のために星矢の理論を打破してやらなければなるまいと考えたからだった。 紫龍の親切は、星矢のそれとは違い、正しく“親切”と呼べるものだったろう。 瞬は ほっとしたように、 「ありがとう」 と紫龍に礼を言い、瞬が紫龍に対しても どんな抵抗も示すことなく その髪を委ねたという事実は、氷河の上に 僅かなりとも思考力と希望を運んできたのだから。 瞬は、実にあっさりと、星矢や紫龍に髪に触れることを許した。 星矢の理論でいけば、それは、瞬は星矢に気があり、紫龍にも気があることを表わしていることになる。 しかし、そんなことがあるはずがない。 瞬が複数の人間に 成婚の儀式である髪上げの儀式を許すことは、まず考えられない。 とすれば、瞬が髪上げなる昔の成婚の儀式を意識しているのだという沙織の推察が そもそも的外れなものだった――ということになるのだ。 その結論は、氷河にとって都合の悪いものではなかった。 実際、氷河は胸中で ほっと安堵の息を洩らしたのである。 瞬は、髪上げの儀式を意識して白鳥座の聖闘士がその髪に触れることを拒んだわけではない。 昨日は たまたまそういう気分ではなかっただけだったのだ。 そう考えて。 辿り着いた結論に気を良くしたらしい氷河が、星矢と紫龍の間に割って入っていく。 そうして、氷河は、紫龍がまとめた瞬の髪とヘアクリップを仲間の手から奪い取ろうとした。 「髪をまとめるのにもコツがあるのか? 俺にも教えろ。後学のために覚えておく」 いずれ毎日 撫で、毎晩 口付けることになる髪である。 その癖を覚え、扱い方を覚えておくことは、瞬の未来の恋人には有益な学習事項であるに違いない。 そう考えた氷河が、いざ有益な学習にとりかかろうとした時だった。 突然 瞬が、 「あ……紫龍、ありがとう。もう髪の毛、邪魔にならないよ」 と言って、弾かれたように掛けていた椅子から立ち上がり、そのままラウンジを飛び出ていってしまったのは。 せっかく立ち直りかけていた氷河は、そうして、瞬の姿を呑み込んでしまったラウンジのドアを再び呆然と見詰めることになってしまったのである。 当然だろう。 この展開から導き出される結論。 それは、髪上げなるイベントを意識しているにしろ、していないにしろ、瞬は氷河に髪に触れられることだけを嫌がっているという事実。 星矢の理論でいくと、瞬は 氷河だけに気がない――ということになるのだ。 「お……おい、氷河、大丈夫か? 生きてるか……?」 瞬きをすることさえ忘れてしまったように、空ろな目でラウンジのドアを視界に映している氷河に、星矢が恐る恐る声をかける。 星矢は――もちろん、紫龍も――氷河の立場を失わせるために、こんな“親切”を実行に移したわけではなかった。 そんなつもりは全くなかったのだが、彼等がしたことは まさに 結果的に、彼等は、瞬に恋する男から、瞬に恋する男としての立つ瀬を奪ってしまったのだ。 「氷河、おい、そんな いつまでも死んでるなよ。俺たち、そんなつもりじゃなかったんだぜ。なあ、紫龍」 「もちろんだ。氷河、気を確かにもて。瞬にはきっと何か特別な事情が――」 「……どんな特別な事情があれば、瞬が 俺にだけ髪に触られるのを嫌がることになるんだ」 「それはその……すぐには思いつかないが、多分――」 紫龍の正直な答えが、氷河を再び半死半生状態にする。 星矢と紫龍は、氷河を立ち直らせるための どんな方策も思いつくことができなかった。 |