「おまえは、そんなに俺が嫌いなのか。俺はおまえに好かれていると思っていたのは、俺一人の勝手な うぬぼれだったのか」 星矢たちに背中を押された格好で、氷河の部屋を訪れたのは瞬の方だったのに、瞬の姿を認めて 先に口を開いたのは氷河の方だった。 瞬が、力なく首を横に振る。 「僕はただ……氷河に髪に触れられて、あの能みたいな結末になるのは嫌だったの」 「能の結末?」 「『井筒』は――帰ってこない夫を、霊になって待ち続ける女性の物語だよ。あんな 微笑ましい歌を送り合って結ばれたのに、夫は浮気三昧、やがて妻を忘れて、妻の許に帰らなくなる。妻はそんな夫を待ち疲れて死んでしまうの」 「……沙織さんは、そんなことは何も言っていなかったぞ。幼馴染みの二人が結ばれる微笑ましい物語のようなことを言っていた」 なぜ そういう大事なことを あの人は言わないのかと、氷河は胸中で思い切り強く、この場にいないアテナに向かって舌打ちをしたのである。 それを知っているかいないかで、瞬へのアプローチの方法は変わってくる──変えなければならなくなるというのに――と。 いずれにしても、瞬が奇妙な やり方で 彼の幼馴染みでもある白鳥座の聖闘士を避けるようになったのは、やはり沙織に付き合って見せられた能のせいだったらしい。 彼女は、世阿弥自身が『最上の花』と自讃した能の傑作を瞬に見せることで、瞬の人生を美しく豊かなものにしてやりたいと考えただけだったのかもしれないが、彼女の親心(?)は、瞬の中に、最上の花どころか、不安と臆病の種を植えつけることになってしまったのだ。 「それくらいだったら、仲間のままでいた方がいいでしょう。仲間同士なら、何があっても、ずっと一緒にいられる。僕が氷河と離れることはない」 「俺を、そんな大昔の浮気男と一緒にするな。俺はおまえを忘れたりしない。そんなことがあるはずがない」 「多分、井筒の二人も、そう信じて結ばれたんだと思うの」 「……」 それはそうだろう。 おそらく、伊勢物語の平安の頃や世阿弥の室町の頃だけでなく 現代でも、世界中の恋人同士の10割とまではいかなくても9割までが そう信じて、自らの恋人の手を取る。 恋人同士が、破綻や別れを前提にして、互いの心と身体を結びつけることは、まずないだろう。 誰もが この結びつきは一生のものと信じて── 一生のものであればいいと願って──結ばれるのだ。 そして、だが、その願いは必ずしも叶うものではない――。 「俺は、人間が生きることの意味と意義を おまえに教えてもらった。そして、生きていることに貪欲になった。俺は、生きていくのに必要なものが欲しい。欲しいものは手に入れる。自分が生きていくために。手に入れたら、離さない。俺は 執念深いんだ。おまえが生きている限り、俺は おまえに執着し続けるだろう。俺が器用に自分の心の向きを変えることのできる男でないことは、おまえも知っているはずだ」 瞬の不安は わからないでもない。 むしろ、それは人として当然の感情なのかもしれない――とも思う。 それでも、氷河には、瞬がなぜそんな不安を抱くのかが、心の底では理解できなかったのである。 どうして自分たちの未来に“別れ”があるかもしれないなどと、瞬は考えることができるのか。 そんな未来を、氷河は、かけらほどにも考えることができなかった――それは、氷河には、まさに想像を絶することだった。 「いつか来る別れを恐れていたら、おまえは誰とも心を結ぶことはできないぞ。友人としても──仲間だって同じことだ。おまえは、いつからそんな臆病者になったんだ」 打ち勝つことなど到底できないと思えるような強大な力を持った敵に対しても、闘志と希望をもって立ち向かい、実際に勝利してきたアテナの聖闘士のものとは思えない瞬の臆病。 氷河の口調が、我知らず 瞬を責める者のそれになってしまったのは、彼が“臆病な瞬”というものの存在を信じられなかったから――認めることができなかったから――だったかもしれない。 氷河は、瞬の臆病に、少しく腹を立てていた。 アテナの聖闘士である瞬の中に 臆病な心などというものがあっていいのかと。 とはいえ、その怒りは、 「……氷河を好きになった時からだよ」 という瞬の答えによって、すぐに霧散してしまったが。 「瞬……」 泣きそうな目で――言葉より視線で、瞬が氷河を責めてくる。 他の誰でもない自分のせいで瞬の中に臆病な心が生まれたのだと知らされて、氷河は 息を呑み、そして、言おうとしていた言葉を喉の奥に押しやることになった。 「僕は、氷河のこと、子供の頃から知ってる。気質も、マーマが大好きなことも、一途なことも知ってる。それは氷河も同じで、氷河も僕のことを知ってくれていると思う。僕が泣き虫で、優柔不断で、臆病で、そのくせ、変なところで頑固。氷河は僕の欠点短所を みんな知っていて、その上で僕を好きでいてくれるんだ。だから、これから僕たちが、互いを嫌いになったり、一緒にいたくないと思うようになったりすることは絶対にないって、僕は思ってた。でも、不安になったの。だって、僕は――人を こんなふうに好きになったのは初めてだったから」 「……」 『井筒』と同じ、幼馴染み同士の初恋。 瞬の不安と臆病は、自然で当然のものなのかもしれない。 そして、瞬の中に そんな気持ちを抱かせたことに責任を負うべき者は やはり自分なのだと、氷河は思わないわけにはいかなかった。 悪いのは瞬ではなく、二人はいつまでも一緒にいられるのだという確信を瞬に与えることのできない男の方なのだ――と。 「友だちは、離れていても友達でしょう? 兄弟だってそう。でも、僕と氷河は違う。僕の“好き”は、そういう好きじゃなくて、一緒にいられないと つらい“好き”なの。そうなることが恐いの」 「瞬……。しかし、俺たちに限って、そんなことは――」 「僕たちに限って そんなことはない――。今は そう信じているから なおさら、いつか“そんなこと”が起きてしまった時、氷河は自分を責めることになるよ。きっと それは氷河のせいじゃないのに──きっと氷河は 僕のせいで傷付くんだ……」 「……」 様々なことを――考えなくていいことまでを――瞬は考えすぎている。 瞬にそんなことまで考えさせてしまっているのは、自分の非力が原因なのだろうと、氷河は思った。 他のすべてを忘れさせ、瞬を恋にだけ夢中にし、その心を浮き立たせるだけの力を、瞬の恋人が有していないから、それでなくても心配性の瞬は──人のことばかり心配している瞬は──不安や憂いにばかり目を向けてしまうのだ。 それは もちろん真摯に反省し、これ以後は、瞬の心を楽しませるために努力しようと、氷河は思った。 もちろん そのための努力はする。 氷河は、だが、どうあっても、瞬の臆病に同調することはできなかったのである。 同調などできるわけがないではないか。 どれほど強く信じ合って結ばれた二人にも いずれ別れの日は訪れるのだから、結ばれずにいる方が二人は傷付かずに済む──などという考えに。 それは、『人は いずれ死んでしまうのだから、生まれてくることにも 生きていることにも意味はない』と言っているようなもの。 氷河は、そんな考えには絶対に賛同できなかった。 この世界に生まれ、瞬に出会えた。 その一事だけで、氷河の生には既に十分な意味が与えられていたのだ。 「瞬。だが、俺は、おまえと一緒でなければ生きていけない。おまえを俺のものにできなかったら、俺は自分が生きていることに意味があると思うことができない。もし 俺たちが これ以上 近付かないことが、“そんなこと”が起きてしまった時に 俺たちが傷付かないための最良の策なのだとしても、おまえが どんなに不安でも、おまえが俺のために そう言ってくれているのだとしても、俺には おまえを諦めることはできない……!」 瞬に出会うことができたから、自分が この世に命を受けたことには意味がある。 これからも そう思っていられる時間を生き続けたいと思う。 「おまえは?」 そのためには、どうしても瞬が必要なのだ。 「おまえはそうじゃないのか」 「氷河……」 瞬は もしかしたら、未来の二人を憂えるあまり、今の自分の心を見失っていたのかもしれなかった。 そういう目をして、瞬は氷河の顔を見上げ、見詰めてきた。 すべてを思い出し、思い出した自身の心を切なく思い、それを忘れていられた自分に、今は驚き困惑しているような眼差しで。 「僕もそうだよ。僕も氷河と一緒じゃなきゃだめ。ごめんなさい。何もかも、臆病な僕が悪かったの……」 瞬は つらそうに眉根を寄せ 氷河に謝罪してきたが、氷河は瞬を責める気にはならなかった。 やっと思い出してくれた。 瞬は以前の瞬に戻ってくれた。 氷河は、とにかく 今はそのことが嬉しく、そのことに安堵するので手一杯だったのだ。 そんな氷河に、瞬が小さな声で問うてくる。 「でも、こんな不安を、他の人たちは どうやって乗り越えるんだろう……」 瞬は、氷河に問うてきたのではなかったかもしれない。 答えなど期待していなかったのかもしれない。 どんなに不安でも、二人は結ばれるしかないのだ。 二人が生きていくために。 その不思議な事実を、瞬は既に思いだしているはずだったから。 それでも 氷河が瞬に答えを返したのは、もちろん、彼がその答えを知っていたからだった。 その答えなら、氷河は、彼がアテナの聖闘士になり、アテナの聖闘士としての戦いを始めた時から知っていた。 |