北の公爵家の城館は、都の北の端に南方を睨むようにして建っている。
館の背後に なだらかな丘陵があり、これが冬に雪で覆われると、光の加減で 都の大路からは玄色(黒色)に見えるため、都の者たちの間では この城は玄の宮、あるいは冬宮と呼ばれていた。
都の中央にある王宮を対称点として、その反対側の南方に南の公爵の城館がある。
そちらは城の背後に小さな湖を置き、その湖面が夏の朝には朱の色に見えるため、朱の宮、あるいは夏宮と呼ばれていた。

玄の宮と呼ばれていても、氷河の館の壁は黒い石でできているわけでも黒く塗られているわけでもない。
それは、四方に尖塔を備えた、冬宮の名にふさわしい白亜の城だった。
白は、黒く見える丘との対比を考えて選ばれた色である。
都と王宮を守るために その場所に建てられたということになっているが、実際には、王宮の向こうにある南の公爵家を牽制するために(互いに牽制し合うために)この場に建つ城。
そして、その城は王宮より規模が大きく、壮麗でもあった。

「森で雨に打たれていた小ウサギを拾ってきた。洗って、乾かして、新しい毛皮をまとわせてやれ。足をひねっているから注意して――」
うまやまで行かず、城の正面で馬を下りると、氷河は出迎えの家令に瞬の世話を命じたのである。
「もう痛みは引きました。お気遣いは無用です」
「それはよかった」
瞬の腰を掴んで馬の背から下ろすと、氷河は、家令の後ろで、ずぶ濡れの公爵と 泥で汚れた公爵の拾い物に目をみはっている小間使いに――実際に瞬の世話をすることになる者に――彼女のすべきことを直接伝えた。
「身仕舞いが整ったら、俺の部屋に連れて来い。それから、身体の温まる飲み物を」
小間使いは、氷河に命じられたからというより、氷河の命令に従うよう家令に視線で示されたから、瞬の前に進み出て、氷河の拾い物に一礼した。
瞬が、北の公爵の城館の大きさや壮麗さに圧倒された様子も見せず、小間使いが指し示したほうに歩き出す。

「若様もお着替えを」
公爵家の家令は、小間使いと共に浴室に向かった氷河の拾い物には一瞥をくれただけで、すぐに館の主の方に向き直ってきた。
氷河が公爵位を継いで既に半年。
氷河の父の代から北の公爵家に仕えてきた壮年の家令は、未だに氷河を『若様』と呼ぶ。
それは、彼が亡くなった先代公爵を『旦那様』と呼んでいたいから――『故公爵』『先代』と呼びたくないから――なのだろうと察し、氷河は その呼び名を許していた。
もともと好きで継いだ爵位ではなく、『それが筋だから』という理由で継がされてしまった公爵位である。
呼び名になど、氷河はこだわりを持っていなかった。

「俺の面倒は俺がみる。自分の手でやった方が早いものを、わざわざ他人の手を煩わせることの意味がわからん」
そういう“筋の乱れ”を許してやっているのだから、『若様』のちょっとした我儘くらいは許すべきである。
言葉にはせずに そう言って、氷河は濡れた服のまま、逃げるように自室に戻ったのである。
20歳になるやならずやで宿命の爵位を継がされた氷河に 自覚と威厳を持たせるべく、生真面目に勤めに励んでいる この家令を、氷河は嫌いなわけではなく、感謝もしていたが、その堅苦しさが少々 苦手なのも事実だった。


「泥で汚れたウサギを一羽 拾ってきたそうだな」
氷河が、人の手を煩わせることなく自分の手で着替えを済ませた直後、まるでその時を見計らっていたように、氷河の私室を訪ねてきた者があった。
名は紫龍。
氷河とは同い年の従兄弟同士ということになる。
二人は、半年前に、北の公爵位を巡って争い合った――押しつけ合った――仲だった。

半年前――公爵などという格式張った地位には紫龍の方が向いていると 氷河は主張したのだが、氷河の父の方が紫龍の父の兄だったために、『それが筋だから』爵位は氷河が継ぐことになってしまったのである。
その時の紫龍の嬉しそうな顔を、氷河は未だに忘れることができずにいた。
北の公爵家の一員として不自由のない生活を約束され、しかも、当主としての責任を一切負わされず、好き勝手に行動できる立場を首尾よく手に入れた同い年の従兄の したり顔が、氷河は今でも癪でならなかった。

「なんだ、おまえか」
「『なんだ、おまえか』とは随分な挨拶だ」
「『こんにちは』とでも言ってほしいのか。なら言ってやるぞ、『こんにちは』。ウサギがどうしたって?」
もちろん氷河は嫌味のつもりで挨拶をしてやったのだが、その嫌味に、紫龍は じつに にこやかに、
「ああ、こんにちは」
と、嫌味の度を増した嫌味を返してきた。
それから、真顔になって、用件に入る。

「あの濡れねずみの小ウサギ、おまえに連れられて城に入ってくるのを ちらっと見たんだが――顔や服は泥で汚れていたが、あれは途轍もない美形だぞ」
「そうだったか? まあ、気持ちのいい子ではあるぞ。物怖じしないし、気の利いた会話もできる」
「おまえ、のんきだな。あれは厄介な災厄――いや、当家にとっては、まさに僥倖といっていい拾い物になる可能性もないではないが、とにかく厄介事の種だぞ」
「紫龍、おまえ、瞬を知っているのか」
「あの小ウサギ、瞬と名乗ったのか」
「そう言っていた」
「……」

氷河の言を聞いた紫龍が、いわく言い難い――複雑怪奇な顔になる。
「堂々と真実の名を名乗ってくるとは……」
紫龍の低く呻くような声は、だが、その半分以上が、
「お客様の身仕舞いが整いました!」
という、妙に よく響く小間使いの声にかき消されてしまった。
家の使用人の声の調子など 普段は全く気にかけていない氷河が、なぜこの小間使いは やたらと明るく誇らしげな声をあげているのかと訝るほど、彼女の声は明るい。
その小間使いの声の明るさ、誇らしさの訳を、彼女が氷河の部屋に案内してきた“お客様”の姿が視界に入ってきた瞬間に、氷河は理解した。

それは、もともと美しい花の精だったに違いない。
しかし、それの世話を任せられた小間使いは、泥で汚れていた みすぼらしい小ウサギを自分が花の精に変身させたような錯覚に囚われ、すっかり得意になってしまったのだろう。
同年代の少女に、妬み羨む気持ちを抱かせることが不可能なほど――つまりは、桁違いに――特異な清楚と美しさ。
泥で汚れた毛皮の下に隠されていた瞬の本来の姿に、氷河は一瞬――否、優に十数秒間――完全に放心していた。
その十数秒間の後、はっと我にかえり、氷河は改めて目をみはったのである。

「見違えた。花のようではないか」
白く なめらかな肌、やわらかく肩にかかる髪、それより何より、自然が作った どんな宝石より澄み きらめく印象的な瞳。
花にたとえれば花が、宝石にたとえれば宝石が、瞬の前では 尻込みしてしまいそうである。
自身の后を『解語の花』と評したのは、どこの国の王だったか。
瞬は、まさに 言葉を解する花、生きている宝石、そして、それ以上の何かだった。

「公爵は春に花を咲かせる太陽のようです。ご親切に感謝します。ありがとう。やはり、身に着ける衣服は乾いているものの方が気持ちがいいです。こちらは公爵が お若かった時に着ていたものだと伺いましたが、僕がお借りして構わなかったのでしょうか」
「仕立て屋を呼んで仕立て上がるのを待っていたのでは、おまえが風邪を引いてしまうだろう。言っておくが、俺はまだ“お若い”ぞ」
「あ、ええ、もちろんです」
微笑しながら 瞬と言葉を交わしていた氷河は、まもなく、瞬の後ろに、小間使いと共にここまでやってきたらしい家令が、小間使いを下がらせたあとも残ったままでいることに気付いた。
氷河や紫龍の2倍近く年齢を重ねている家令は、重ねた歳の分だけ、彼の隣りに立つ紫龍より複雑怪奇な表情を浮かべている。

「どうしたんだ」
氷河は家令に尋ねたのだが、先に口を開いたのは紫龍の方だった。
「噂通りだ。これは間違いないな」
「何がだ。せっかく、こんな綺麗なものを見る機会に恵まれたんだ。おまえ等、もう少し 嬉しそうな顔をしたらどうだ」
「俺だって、できるものなら、そうしたい」
「そうできたら、私も嬉しいのですが」
似たような顔をして、似たような答えを返してくる紫龍と家令に、氷河は眉をひそめたのである。
瞬が そんな二人の様子を見て、困ったように苦笑する。

「お二人は おそらく、公爵はとんでもないものを拾ってきたと、お困りなのでしょう」
「氷河でいい。とんでもないものとは、おまえのことか? まあ、確かに とんでもなく美しいが――。地上に下りてきたのは何かの間違いだったのだと思えるほど」
「この子は地上に下りてきたことより、今ここにいることの方が より大きな間違いだろう」
従弟の言葉の揚げ足をとるような紫龍の物言いに、氷河は むっとしたのである。
美しいものを美しいと認めずにいたら、人生は どれほど味気なく無味乾燥なものになるか。
自分より よほど審美眼を持ち、自分より よほど風雅を解する心を備えているものと思っていた紫龍の無風流。
氷河は、彼の彼らしからぬ無風流の訳を問い質そうとしたのである。
氷河がそうする前に、その理由を公爵家の家令が氷河に教えてくれた。

「若様。この方は――南の公爵のご令弟に相違ありません」
「なに?」
「誰も登ったことのない山の頂にある雪でできた花のようでもあり、誰も見たことのない森の奥にある澄んだ泉の湖面のようでもあり、どんな姫君も太刀打ちできず、薔薇の花も百合の花さえも色褪せさせてしまうという噂の」
「……」
審美眼や風雅を解する心では、自分は やはり並み以下の男らしいと、家令が口にした形容詞の羅列を聞いて、氷河は思ったのである。
たかが噂を語る時にさえ、人は そんな麗句を思いつくというのに、この国で一、二を争うほどの力を有している北の公爵の この語彙の貧弱さは何事なのか――と。






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