俺が数年振りに日本に帰ってきたのは、聖域でも世代交代が進み、まだまだ力不足とはいえ後進が育ってきて、聖域の留守番くらいは任せられるようになったから。 直接のきっかけは、俺が40になったことだった。 『 俺が瞬を失ったのは25の時。 それから15年。 俺は、『40にして惑わず』が俺自身にも当てはまるのかどうかを確かめてみようという酔狂を起こしたんだ。 瞬と長い時間を過ごした日本で、瞬との思い出の場所を目の当たりにしても、俺は心穏やかにしていられるのかどうかを確かめてみようと。 ある種の感傷旅行――といえるかもしれない。 日本は、春の盛りだった。 瞬の命が この地上から消え、世界は随分と色褪せた。 だが、そんな世界でも、瞬が愛した世界だと思えば、美しいと思えないこともない。 実際、俺は春の日本を美しいと思った。 そう思えるようになるまで15年の時間がかかったということか。 日本に帰ってきて3日目。 俺は、北関東にある菜の花畑に向かった。 そこは、瞬と二度ほど行ったことのある場所だった。 一度目は、俺たちが聖闘士のなるために修行地に送られる直前、城戸邸に集められた子供たち全員で――あれは送別会を兼ねた遠足のようなものだったんだろうか。 二度目は聖闘士になって日本に帰国してから、幼い頃を懐かしんで、瞬と二人で。 あの頃 既に、俺たちの毎日は戦いの連続だった。 だが、あの頃が俺の最も幸せな時だったのかもしれない。 瞬と二人で花を見ていられた頃――。 あの頃と同じ、一面の菜の花。 世界は何も変わっていない。 だが、俺の隣りには瞬はいない。 瞬が生きていた頃と同じ世界が この地上にあることを、アテナの聖闘士として俺は喜べばいいんだろうか。誇りに思えばいいんだろうか。 これは、俺たちが多くの犠牲を払って守り抜いた世界なのだと。 瞬を失ってまで、守り抜いた平和なのだと。 美しくて 幻想的にも見える菜の花畑の傍で、そんなことを考えながら、我ながら見事としかいいようのない感傷に俺は酔っていた。 隣りに瞬が立っているような錯覚さえ覚えながら。 俺が現実に帰ってきたのは、急に俺の耳に飛び込んできた子供たちの甲高い笑い声のせいだった。 ここは小学生や幼稚園児が春の遠足に来ることの多い場所。 今日は休日だから家族連れの方が多いようだったが、ともかく そういう場所なんだ。 花畑の周囲の土手のあちこちで、それらしい集団が弁当を広げている。 俺は もちろん聖衣ではなく背広を着ていたが、いずれにしても ここは 背広を着た40男が一人で佇んでいていい場所じゃない。 花畑に一人で佇んでいて絵になるのは、可憐な美少女くらいのものだ。 たとえば瞬のような。 瞬の隣りにいてはじめて、俺は そこにいてもいい人間になる。 俺が――今の俺が、そんな場所に一人で立っていたら周囲から浮くこと間違いなし。 実際 俺は、四方から俺に向けられている多くの不審げな視線を感じて、即座に その場から退散することにした。 俺がここにいつまで立っていても――瞬が俺に会いにきてくれるわけじゃない。 そう考えて、俺が踵を返した時。 俺は、俺が進もうとした方向に、俺の行く手をふさぐように一人の人間が立っていることに気付いた。 歳の頃は14、5。 中学生か、もしかしたら高校生なのかもしれない。 子供の歳など俺には わからないが、それが俺の待ち人でなことだけは確かだった。 瞬は、健康的に細く肌も白かったが、その子は貧相に――病的といっていいほどに白く痩せていた。 瞬は無性的だったが、その子は中性的。 だが、まあ、男の子だろう。 髪は俺が思い描く男子中高生のそれより長く、背はあまり高くない。 唇が異様に赤かったが、少女ではない。 その見知らぬ男子中学生(高校生?)が、俺より30センチ近く低いところから、俺を上目使いに見上げ、『はじめまして』も言わずに、 「旅行者じゃないみたいだけど……菜の花が好きなの?」 と尋ねてきた。 瞬なら、『旅行者ではないようですけど、菜の花がお好きなんですか?』だ。 今時の子供は目上の者に対する敬語の使い方も知らんのか。 「いや」 こんな無礼な子供に返事をする義理もないと思ったんだが、俺はとりあえず返事といっていいようなものを返してやった。 この歳になって、俺も少しは人間が丸くなったということか。 「みんなが あなたを見てるのに気付いてる? 背が高くて、姿勢がよくて、プロポーション抜群。ものすごいオーラを発してて、周囲の空気の色が違う。外国のモデルか俳優の撮影か何かだと思ってるよ」 見知らぬ子供が勝手なことをほざく。 だから、俺も勝手に言いたいことを――対峙する相手の理解や共感を求めるものではない言葉を――口にした。 俺が悪目立ちして、春のうららかな景観を乱していたことは棚にあげて。 「私の大切な人が好きだったんだ。菜の花、小手毬、雪柳、紫陽花、藤。子供の頃は、よく二人で手を繋いで――」 二人で花を探した。 城戸邸の庭はもちろん、あの家の周辺にあった邸宅の庭、公園、学校の庭に入り込んだこともあった。 そうして見付けた花の前で、隣りに俺がいることを忘れて花ばかりを見詰めている瞬に腹を立て――いや、瞬を花にとられてしまうような気がして――俺は必ず その手を強く握りしめた。 瞬は俺の不機嫌にすぐに気付き、困ったように笑いながら俺の手を握り返してくれて、そして俺は機嫌を直すんだ。 聖闘士になる修行のために瞬が送り込まれることになったアンドロメダ島が どういうところなのかを聞いた時、こんなに花の好きな瞬が そんなところで生きていけるんだろうかと、俺は本気で心配した。 「小さな花が集まって咲く花ばかりだね。あなたなら薔薇の方が それらしいのに」 「小さな花が集まって――?」 言われて初めて気付いた そうだ。 瞬は、そういう花が好きだった。 一輪だけで目立つ花ではなく、仲間と寄り添って初めて一つの花としての形を成すような花。 瞬もそういう子だった。 控えめで、いつも仲間たちの中に紛れ、その一員として在るような。 だが、瞬がどんな花の中に紛れ隠れようと、俺にはすぐわかる。 瞬は、強くて優しく可憐で、その周囲に温かい空気をまとっている。 瞬が10億100億の花の中の小さな花の一つだったとしても、俺はすぐに瞬を見付けられるだろう。 瞬は俺にとって特別な花だ。 いつも――今でも。 「そう、瞬は薔薇の花ではなかった」 「瞬? あなたの大切な人って、瞬って名前なの? 僕も瞬だよ」 「――」 20年前の俺なら激昂して、『貴様も瞬? ふざけるな。すぐに改名しろ!』とでも怒鳴りつけていたかもしれない。 こんな不躾で敬語も知らないようなガキが、俺の瞬と同じ名前を冠しているとは! 20年前の俺どころか、実をいうと今の俺にも、その名を俺の瞬でない人間が持っていることは不快の極みだった。 だが、不惑を迎えた大人の俺は、そういう感情を表に出さない術を心得ている。 名は名でしかない。 そして、大抵の人間は、自分の名に責任をとれないものだ。 不快の念を顔に出す代わりに、俺は抑揚のない声で、大人らしく、礼儀知らずな子供の歳を尋ねた。 「歳は」 「15」 「私の瞬が死んだ年に生まれた瞬か。君も花のようだ」 俺がそう言ったのは、世辞でも嫌味でもなく――その不躾な子供が どこか人間離れしていると感じたからだった。 妙に赤い唇のせいだろうか。 そこだけが露を含んだ赤い薔薇の花びらのように不自然だった。 人間のものとしては。 この歳の子供のそれにしては。 「僕は男だよ」 皮肉ではなかったのに、偽の瞬が むっとした顔になる。 子供というものは、こんなに感情を読みやすいものなんだろうか。 ガキの頃の星矢でも、もう少し感情を隠す術を心得ていたような気がするが。 それとも、俺たちの方が子供として特殊だったんだろうか。 「それは 見ればわかるが。ああ、花に例えられたからか。男なら、そんな小さなことには こだわらないことだ。私の瞬は、花に例えられても、月に例えられても、星に例えられても、お姫様呼ばわりされても平気で にこにこしていた」 「お姫様? 綺麗な人だったんだ」 感情の読みやすい子供が、子供にしては奇妙な反応を示してくる。 いや、この子にしては奇妙な反応というべきか。 花に例えられて機嫌を損ねるような子供は、 『男がお姫様呼ばわりされても平気でにこにこしてるなんて馬鹿みたい』 とでも言ってくるのかと思った。 しかし、困ったな。 俺は、 『私の瞬は、綺麗だの可愛いだのという言葉を言われ慣れていて、そのたび いちいち反論したり否定していたりしたら、確実に 人生の5分の1以上の時間を反論と否定のために費やすことになっていただろう』 という“反論”を用意していたのに。 生意気な子供に 妙に素直な反応を示されたせいで、俺は、俺が用意していたセリフを言えなくなってしまった。 「当然だ。私の瞬は、素晴らしく綺麗で可愛くて強くて優しくて――」 言おうとしていたセリフを言えなくされてしまったからって、何を言っているんだ、俺は。 こんな、今日初めて出会った、礼儀も知らない子供相手に。 だが、確かに その子供は、俺がイメージするどんな子供とも様子が違うし、どこか奇妙なところのある子供だった。 瞬が死んだ年に生まれた瞬。 だが、俺の瞬には似ていない。 瞬と同じように、花に例えたいような何かを持ってはいるが、俺の瞬とは違う。 何より、その瞳――眼差しの感触が違う。 瞬の瞳は、暖かく晴れた春の日の 誰にも汚されたことのない湖の湖面のように、温かく穏やかに澄みきっていたが、この子は、その中で炎が燃えて揺らめいているような目をしている。 その炎のせいで、瞳が澄んでいるのかどうかもわからない。 いったい この子は何者だ。 俺は この段になって初めて――遅ればせながら、そういう方面に思考を巡らせた。 知る必要もないと考えて、気にしてもいなかったことに。 |