そんなふうに――知る必要がないと考えていたことを考え出した俺と 奇妙な子供の間に、ふいに割り込んでくる声があった。
婦人の声。
「瞬くん、お知り合いなの?」
そのご婦人の視線は、“瞬くん”ではなく俺に向けられていた。
俺と同年代の女性。
どこかで会ったことがあるような気がして、俺は記憶の糸を手繰り始めようとした。
その作業に取りかかる前に、彼女に、
「まさかと思ったけど……氷河さん」
と名を呼ばれ、俺は彼女が誰なのかを思い出せない自分に少々焦ることになったんだ。
俺の名を知っている婦人が誰なのかを全く思い出せなかったら、それは やはり失礼というものだろう。
幸い、彼女が同伴していた小学生くらいの女の子が、彼女の名を口にして 俺を窮地から救ってくれたが。

「絵梨衣先生、知ってる人?」
「ええ。先生の古い知り合いよ。そうね。私の初恋の人」
“絵梨衣先生”は、俺を窮地から救ってくれた少女だけでなく、小学生から中学生くらいまでの年頃の複数の子供たちを従えていた。
絵梨衣の戯れ言を聞いた子供等の反応は見事に二分された。
女の子たちは揃って瞳を輝かせ色めきたち、男子は これまた一様に複雑そうな顔になる。
絵梨衣は男女を問わず、子供等の憧れの先生といったところなのだろう。
彼女はあれから、星の子学園で子供たちを教え導く立場の人間になったらしい。

「絵梨衣先生が好きになるだけあって、滅茶かっこい〜!」
「脚、長ーい!」
「私、ずっと絵梨衣先生って タダモノじゃないと思ってたのよー! やっぱりタダモノじゃなかったのねーっ」
今時の子供に、彼等と同じ歳だった頃の瞬の礼儀正しさを求めるのは無理な話なんだろうし、これも世の流れと諦められなくもないが、この理論展開にはついていけん。
わざわざ苦笑を作ってやるのも面倒で、俺は無表情を堅持した。
絵梨衣の引率する子供たちの中では最も年長らしい偽の瞬が、とんでもない発言をして、そんな俺の背筋をひやりとさせる。

「先生、振られたの」
「ええ、見事に」
「瞬って人のせい?」
「……」
本当に子供ってやつは!
子供という生き物は、自分以外の人間も自分と同じように心を持った存在なのだということに思いを至らせることもなく言いたいことを言い、訊きたいことを訊く。
それで自分は大人を困らせることができたと悦に入ったりするんだからたちが悪い。
おかげで俺が――子供以上に“我が道を行く”を座右の銘にしている この俺が――見苦しい言い訳をしなければならなくなるんだ。
実に腹立たしい話だ。

「すまない。行きずりの子供と思って、口をすべらせた」
「僕は子供じゃないよ」
「子供はそう言うものだ。自分は子供じゃないと」
人の心を思い遣ることを知らない このガキが子供でなかったら、いったい誰が子供だというのか。
俺は事実を告げただけだったのに、偽の瞬は むっとして俺を睨みつけてきた。
事実を告げられて反発するのは子供の証拠だ。
そして、不幸にして大人になってしまった俺は、こんな子供のなだめ役にまわらなければならない。
「子供でいることは悪いことじゃないだろう。未来があって、無限の希望と可能性がある」
「今時、そんなものを信じてる子供はただの馬鹿だよ」

世の中をシニカルに見詰めて いきがっている子供を、俺は子供に戻って殴りつけてやりたくなった。
が、大人には そうすることができないことを、生意気な子供は知っている。
「あなた、何してる人。普通の会社員じゃないよね」
俺が絵梨衣の知り合いと知って、無礼な子供は ますます遠慮を忘れたようだった。
いや、この生意気なガキは、最初から そんなものは持ち合わせていなかったような気もするが。
「普段は欧州にいる。日本は故国で、休暇で帰ってきた」
不快の気持ちを おくびにも出さず、まともに受け答えしてやる俺の なんてオトナなこと。
「こちらでは城戸さんのお屋敷に?」
さすがに絵梨衣は、俺の成分の半分が まだ子供だということに気付いているらしく、我儘な二人の子供の間に上手く水をさしてきた。
「ああ」
「城戸の お屋敷――ふうん。あそこにいるの」
偽の瞬はそう言って、急に俺への興味を失ったように 二人の大人に背を向けた。
出会いの最初から別れまで、俺は 俺の瞬と同じ名を冠する子供に『礼儀』の『れ』の字も見い出すことができなかった。






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