俺が日本に帰ってきて半月ほどが経った頃。 その日は朝から雨降りだった。 さすがに今日は あの生意気な子供もやってこないだろうと、俺は城戸邸の庭を望むラウンジの安楽椅子に身体を預け、ぼんやりと、雨で生気を増していく庭の緑を眺めていた。 瞬は、こういう光景も、いつも優しく見詰めていたと、そんなことを思いながら。 「瞬……」 瞬が作る優しく温かい空気の感触。 やがて目を閉じていた方が、瞬の面影を鮮明に思い描けることに気付いた俺は、椅子に身体を預けたまま、その瞼を伏せた。 瞬の面影を求めて俺が目を閉じてから10分ほどが経っていただろうか。 あの生意気な子供がラウンジのドアをそっと開け、足音を立てぬように、俺が掛けている椅子の側に近付いてきたのは。 気付いていたにもかかわらず、俺がすぐに目を開けなかったのは、そうするのが面倒だったから。 瞬の眼差し、瞬の優しさ、瞬の小宇宙の感触――。 それらのものに、意識も感覚も身体そのものも囚われている幸せな状態を あえて放棄してまで見たいものでもなかったしな、その闖入者は。 俺が俺の中に蘇らせた瞬の方が、断然いい。 たとえ その礼儀知らずの子供にマジックで顔に落書きをされても、俺の瞬の側にいたい。 どこか倦怠感が漂う、だが激しい俺のその願いの実現維持継続を、俺が断念することになったのは、俺が眠っているのだと思い込んで遠慮のかけらもない視線で俺の顔を舐めていた その子供が、ふいに俺の名を呼んだからだった。 小さな、少しかすれた声で、 「氷河……」 と。 20以上も年下の礼儀を知らない子供に名を呼び捨てにされることに腹を立て、俺は意地悪く、目覚めのどんな兆候も示してやらずに、突然目を開けた。 「猫のような忍び足だな」 もちろん俺は褒めたわけじゃなく非難したつもりだったんだが、礼儀知らずの子供が俺の睥睨に ひるんだのは ごく短い時間だった。 彼はすぐに とってつけたような笑いを作って、それを俺に向けてきた。 「猫じゃなく、小犬のように元気に駆けてきたら、抱きとめてくれる?」 詰まらん冗談だ。 俺は、たった今まで、俺の瞬を抱きしめ、俺の瞬に包まれていたんだぞ。 トロイのヘレンが すっ裸で迫ってきたって触れたいと思うものか。 無言の俺に睨まれたら、大抵の人間は 怯えて俺から逃げようとする。 少なくとも視線が会っている状態は解消しようとするものなんだが、恐いもの知らずの子供は そうしなかった。 それどころか、逆に、一層強い視線で正面から俺を凝視してくる。 不自然に赤い唇。 そして、その生意気な子供の唇は、 「氷河……僕だよ」 という音を作り出した。 真剣な目をして、この子供は何を言っているのかと、俺は思ったな。 本当に訳がわからん。 言動が俺の理解の範疇を超えている。 その子供の言葉が支離滅裂すぎて、俺は しばし声を――というより言葉を失っていた。 俺としたことが、適切なタイミングで 呼び捨てをやめるよう釘を刺せなかったのは まずかったが、この場合は仕方がない。 偽の瞬が、身の程知らずにも、俺の瞬を騙るようなことを言い出したんだから。 俺が顔を歪めて、突然 訳のわからないことを言い出した偽の瞬を見詰めると、奴はやっと 俺を真正面から見ていることの危険に気付いたらしい。 ごまかすように笑って――まあ、一般人として実に妥当な態度だ――奴は、その視線を あらぬ方向に泳がせた。 「僕は、あなたの瞬の生まれ変わりかもしれないよ」 視線が会っていない状態で、いつもの彼らしいシニカルな薄い笑みを浮かべ、偽の瞬が 笑えない冗談を言い募る。 多少の危険は伴うが、これも妥当な対応だろう。 真顔で そんなことを言い募られたら、俺は本気で怒る。 「私の瞬が、こんな生意気な子供になるものか」 「ははは」 空ろな響きの笑い声。 命とは真面目に必死に生きなければならないものなのだということに まだ気付いていない子供、あるいは その事実から目を背けている大人のような。 つまり、生意気な子供はいつもの彼に戻っていた。 「僕はさ、あなたが好きで、気になって仕方がないんだ。僕は、人の気持ちを僕に惹きつける方法を知ってる。僕を無視したくさせる方法も知ってる。相手のレベルを見極めて、そのレベルに合わせて生意気なことを言って、はらはらさせて放っておけなくさせたり、二度と僕に関わりたくないと思わせたりするんだ。でも、あなたは――」 「確かに 君は、人の目を自分に向ける方法を知っている。うまいものだ。いつも母親に自分を見ていてほしがる子供のようだな」 「残念ながら、僕には母親はいないけどね」 「そんなことは自慢にもならんし、際立った特徴でもないな」 そんなありふれたことが実際にありふれている星の子学園にいる子供が、人の同情を引くために その事実に言及するとは思えないから、彼はただ 事実を言っただけなんだろう。 俺の切り返しに、彼は気分を害した様子も、傷付いた様子も見せなかった。 代わりに、ほとんど深刻さのない口調で、また笑えない冗談を口にする。 「……あなたの瞬の代わりでいいから、僕と寝てみない?」 「残念ながら、その気にならない」 「……あなたの瞬が聞いたら喜びそうなセリフ」 「私の瞬は喜ばない」 「そうなの? そうかなあ。普通は感激すると思うけどな。ボクの氷河は まだボクだけを愛してくれているんだ――って」 俺の瞬が、そんな薄っぺらなことを考えるものか。 俺は俺の瞬を侮辱されたことに腹を立てたが――俺にあっさり拒絶された無礼な子供は、俺に袖にされたことに腹を立てたようではなかった。 むしろ、彼は、俺に退けられたことに ほっとしている――ように見えた。 そう見えると俺が言うと、彼は、 「そりゃあ、あなたとほんとにそんなことしたら、あなたの瞬のように強靭でない僕の身体は耐えられそうにないから。いろいろと」 それは賢明な判断だ。 この子は、確かに、どうしようもない馬鹿ではないな。 「もし、本当に君が私の瞬の生まれ変わりだったとしても、私は君に対して、私の瞬に対するような気持ちは抱かない。もし君が本当に私の瞬の生まれ変わりだったとしても、君は私の瞬とは違う個人だ。君は、子供の頃の俺が瞬と手をつないで見た花畑を知らない」 つなぎ合った手の温かさ、もどかしさ、切なさ。 二人で見ていたから美しかった小さな花たち。 あの時の二人の心を憶えている生きた人間は、今は この地上に俺一人しかいないんだ。 俺は――今の俺らしくなく、寂しい子供の顔でも垣間見せてしまったんだろうか。 残酷な子供が平気で人の傷につけ入るように、偽の瞬は 「僕だよ。どうして わからないの」 「……私の瞬なら、たとえ本当にそうだったとしても、多分、その事実を俺に言わない」 「ちぇ、騙されないかー……」 残酷な子供は、残念そうに――詰まらなそうに そうぼやいて、口をとがらせた。 |