城戸邸に、聖域のアテナから電話があったのは、偽の瞬と俺の間で そんなやりとりのあった翌日。 俺は 聖域に何かあったのかと身体を緊張させたんだが、彼女の声は落ち着いたもので――長く連絡を寄こさない息子の身を案じている母親のそれのようだった。 電話の画像は切ってあったが、声だけの方がわかるものがあるというのは事実だな。 「若い子たちが 鬼のいぬ間の洗濯に夢中になって、聖域中から洗剤がなくなりそうな勢いなのだけど――」 「ガキ共が 真面目に洗濯の技術を習得しているのなら、それは奴等にとっても有益なことだ。その技術が いつどんなふうに役立つことになるか わからない」 「帰ってきたら、特訓の成果を褒めてやって」 暗に いつ聖域に帰ってくるのかと尋ねてくるアテナに何と答えたものか、俺は迷った。 そろそろ帰らなければならない。 春の花の時季は終わりかけている。 それはわかっていた。 が、俺は結局、彼女に問われたことに明確な答えを返さなかった。 「こちらで、瞬という名の子と知り合ったんです。瞬が死んだ年に生まれた子だそうですよ。その子が、どんな気紛れを起こしたのか、私の気を引こうとして、瞬の生まれ変わりの振りをする――」 「まあ……」 アテナが忍び笑いを洩らす。 偽の瞬の件に蹴りがつくまで俺が聖域に戻ることはないだろうと、彼女はすぐに察し、そして それを許してくれたようだった。 「あなたのことだから、俺の瞬はもっと綺麗で可愛くて優しかったとでも言って、素っ気なくしているんでしょう」 当たらずとも遠からず。 いや、むしろ、ど真ん中大当たりの的中か。 まあ、彼女になら、俺のすべてを見透かされても、俺の何を言い当てられても、腹は立たないが。 「それは仕方がありません。そもそも私は生まれ変わりなどというものを信じていませんし――。命は一度きりのものだから美しく価値があるのだと、瞬は言っていた」 「あなたが生まれ変わりなどというものを信じていないことは知っているわ。人が生まれ変わるものだと信じていたら、あなたは、瞬が死んだ時すぐに 瞬との新しい次の生を求めて、自分の命を絶っていたでしょう」 『あなたが信じていないことは知っている』 アテナのその言葉に、俺は引っかかりを覚えた。 俺の信じていることと事実は、必ずしも一致しているとは限らない。 もちろん、事実を知ったからといって、俺が 信じていることを信じなくなるとも限らないが。 「あなたは信じているんですか。――実際に転生というものはあるんですか」 それが俺の中で、事実を知ってもどうにもならないこと、何も変わらないことだということがわかっているからか、アテナは曖昧に笑っただけで、俺の問いに はっきりした答えは返してこなかった。 「ギリシャでは、大抵は、思いを残して亡くなった者は花や木に生まれ変わるのだけど……。ただ瞬は聖闘士で、その小宇宙は強大で――そして、瞬は特別製の心と魂の持ち主だったわ。瞬の愛も特別製だったから、瞬なら どんな奇跡を起こさないとも限らない――と思わないでもないわね」 「かもしれない。だが、瞬なら――自分が何かに生まれ変われるのだとしても、きっと人間ではなく花に生まれ変わりそうな気がする。人の命は一度だけのものだから美しく大切なものなのだと、瞬は信じていたから」 そう。 瞬はそう信じていた。 そして、俺は、瞬が自分の信じていることを曲げないだろうことを信じているんだ。 事実は――事実はどうでもいい。 「そうね。それは、とても瞬らしい、強くて前向きな考え方ね。今を生きるということに最も強い意味を持たせる考え方だわ」 「ええ」 「そんな瞬は――おそらく、自分は忘れられてもいいから、あなたが 今 生きている誰かを愛するようになってほしいと望んでいると思うわよ」 そうかもしれない。 いや、確実にそうだ。 だが、それは不可能なこと。無理な相談だ。 少なくとも、瞬を愛したように 俺が誰かを愛することはない。 瞬は――特別な心と魂の持ち主だった。 「その瞬の生まれ変わりを騙っている子はどうなの? 瞬に対するように――とまでは言わないけれど、何か心惹かれるものはないの」 「奇妙なところのある子ですが――無責任に けしかけないでいただきたい。私は――私の恋は、瞬が最初で最後だ」 「困ったわね」 「瞬は、世界のために、多くの人々のために、自分を犠牲にすることができる人間だった。個人としての自分は報われなくても、それで世界が守られ救われるなら、それこそが自分の幸福であり満足だと考える子だった。だから、俺は瞬という一人の人間に俺を捧げることにしたんです。俺は 世界だの多くの人間だののために自分を犠牲にすることはできないが、愛する者のためになら何でもできる男だった。瞬のために生きていれば、俺は瞬を通じて世界に寄与できる。そして、瞬は、俺を通じて ささやかな個人の幸せを手に入れることができる。俺と瞬は最高の組み合わせだと、俺たちは出会うべくして出会い、惹かれ合うべくして惹かれ合ったのだと、俺は信じていましたよ」 ああ、『俺』に戻っていると、話しながら俺は思っていた。 すべてを心得ているアテナの前で 言い直すのも馬鹿げているから、俺はそのまま『俺』でいくことにしたが。 「世界のために生き、そして死ぬのが瞬だと、俺は思っていた。まさか、その瞬が俺を――俺一人の命を救うために死ぬことがあるとは思ってもいなかった」 「それは――」 「わかっている。俺は 瞬が守ろうとしていた世界の一部で、瞬は自分の恋人を守るために死んだわけじゃない。あの時、瞬は、瞬が守りたい世界を救うつもりで俺を庇ったんだ。だが、瞬は――瞬は、本当に、俺には最も思いがけない形で死んでいった。俺のために――俺一人のために。だから俺は、瞬を忘れることも、離れることもできない。瞬だけ、瞬だけだ」 「そうね……」 アテナが『困った』と言う時、彼女は困っていない。 『そうだ』と受け入れてみせる時こそ、彼女は本当に困っている。 俺は彼女をこれ以上困らせないために、『帰ったら、洗濯のテストをするから なまけないように』という聖域の若造たちへの伝言を託して、電話を切った。 |