電話を切って振り返ると、そこに偽の瞬がいた。
どうやらアテナと俺のやりとりを――“俺”の話を聞いていたらしい。
周囲を見ず、自分の信じるものだけを信じる子供のままの“俺”。
おかしな話だ。
大人は、自分を大人だと思うことができない。

「本当に、猫のように足音を立てずに近付いてくるな」
瞬に対する俺の恋は、我儘で一途な子供の恋なんだ。
大人の恋じゃない。
だから、誰にも変えられない。
誰にも消し去れない。
それが瞬の望みだからという理由で、今の俺が誰かを恋することがあったなら、それは いわゆる“大人の恋”というやつなんだろう。
俺には一生 縁のないものだ。
俺は死ぬまで子供でいる。
瞬に、我儘で一途で真面目な恋をし続けるんだ。

それが、俺同様に子供であるはずの偽の瞬にわからなかったはずはない。
それは隠しようのない事実だから、“たかが子供”に知られてしまったと慌てて取り繕うこともできない。
そう考えて開き直りかけた俺に、偽の瞬は、またしても訳のわからないことを言い出した。

「どうして、あなたの瞬だけなの。僕は、こんなにあなたが好きだ。好きになってしまった。僕が瞬の生まれ変わりだからなのだとしか思えない」
本当に、何を言い出したんだ、この子は。
常識で考えろ。
俺は不惑を迎えた中年男だぞ。
「どうして僕じゃ駄目なの。僕は、あなたがこんなに好きだよ」
「それは錯覚だ」
たちの悪い冗談を真顔で言うなと、本音を言えば、俺は馬鹿げたことを言い出した子供を怒鳴りつけたかった。
あえて『錯覚だ』と言ったのは、それが万一悪質な冗談でなかった場合のことを考慮してのことだ。
だが、偽の瞬は、『もちろん冗談だよ』という、俺の望む言葉を俺に与えてくれなかった。
それどころか、偽の瞬は 真剣そのものの目をして馬鹿げた冗談を俺に訴え続けた。

「錯覚? 錯覚なんかじゃない。僕は瞬さんの生まれ変わりだよ。きっとそう。でなかったら、どうして僕はこんなにあなたが好きなの。普通だったら考えられないよ。父親ほども歳の違う男の人に恋するなんて」
「普通なら考えられない。その通りだ。今の君は変だ。冷静になった方がいい」
「変でも好き。あなたのためなら何でもする。お願い、僕を受け入れて」
「……」
恐ろしいことに、彼はいつまでも真顔のまま、俺にすがり続けた。
彼が子供だからこそ、俺は対応に迷うことになったんだ。

どうして こんなふうに思い込めるのか、俺は不思議でならなかった。
20年前、30年前の俺もこうだったろうか。
そして、俺の瞬も、『どうして こんなふうに思い込めるのか不思議』だと、俺の情熱に戸惑ったんだろうか。
もしかしたら、『僕は男なのに』『聖闘士が恋なんて』と?
だとしたら、俺は、俺が思っていた以上に瞬を困らせ、瞬が進もうとしていた道を曲げてしまったことになる。
それとも瞬は、俺が瞬に好きだと告げる以前からもう、幼い頃から幾度もつないできた二人の手に何かを感じてくれていたんだろうか。
だから俺を受け入れてくれたんだろうか――?

本当のところは、瞬ならぬ身の俺には わからない。
俺にわかっているのは――俺が知っているのは、瞬が その心と身体で俺を受け入れてくれたことだけ。
そうして俺と瞬が、確かに幸せな恋人同士だったことだけだ。

そう。
どんな障害も、恋の情熱は打ち砕いてしまう。
どんな障害もだ。
それを知っていたのに――俺は、その障害を並べ立てて、礼儀知らずで無鉄砲な子供が求めるものを否定した。
恋の情熱は どんな障害も打ち砕くが、俺のその情熱は 俺の瞬のためだけにあるものだったから。
「私は君の父親といってもいい歳の人間だ。しかも、命がけの戦いを生業としている聖闘士で、私は いずれ君を残して死ぬ。残された者の悲しみや苦しみに耐える時間は短い方がいい」
「そんなこと、勝手に決めないで! 僕が あなたより先に死ぬことだってあるかもしれないよ!」
「そんなことは、冗談にでも口にするな!」

俺はもしかしたら、その時初めて、礼儀知らずの子供に対して本気で怒りを覚えたのかもしれなかった。
人間はいつかは必ず死ぬ。
幸福になりたいと どれほど願い努力しても幸福になれない者、恵まれすぎるほど愛に恵まれ幸福な人生を過ごす者――人間の人生は不公平なものだが、死の時だけは誰にでも公平に訪れる。
自らの幸福だけを願う者、すべての人の幸福を願う者、善良な者、邪まな者、生きていたい者、死を望む者、誰にでも公平に。
だが、俺は、その順番を乱されるのは嫌だった。
本当に、それだけは嫌だったんだ。

「氷河……」
恐いもの知らずの子供が、もしかしたら その時初めて、俺の怒りに怯えた――のだったかもしれない。
無礼なことに、またしても俺の名を呼び捨てにして、もともと血の気の少ない白い頬を土気色にし、恐いもの知らずの子供が 猫のように音のない足取りで少しずつ後ずさっていく。
無礼な子供らしく辞去の挨拶もせず、だが無礼な子供らしくなく 打ちひしがれた様子で、彼は俺の視界の中から消えていった。


どんな障害があってもいい。
誰かを愛せたらどんなにいいだろう――と思う。
瞬を忘れられるほど。
何もかも捨てられるほど。
瞬を愛していた時の情熱を再び自分のものとして感じることができたなら、人は恋する人以外には何も見えなくなった世界で幸福そのものの存在になることができる。
それが手に入るなら、俺は他には何もいらない。
だが、それはもう永遠に俺のものにはならないんだ。
瞬の死が、俺の情熱までをも殺してしまったから。
いや、俺の情熱は消えていない。
俺は 今も 瞬が好きでたまらない。
手をつないで、一緒に花を見た瞬。
瞬の面影を脳裏に思い描くと、俺はひどく優しい気持ちになり、同時に 俺の身体と心は熱くたぎる。

瞬に向かう情熱が激しすぎて、いつまでも消えることがなくて、おそらく今の俺の中には 他の情熱が入り込む小さな隙間すらないんだ。
これは、俺の意思にも 長い時間にも、へたをすると俺自身の死という出来事をもってしても、変えられないことかもしれない。
おそらく変えられないだろう。
瞬の死でさえ、俺の情熱のあり方を変えることはできなかったんだから。

偽の瞬は、それから3日間、俺の前に姿を現わさなかった。






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