絵梨衣から、偽の瞬が危篤状態に陥っているという連絡が俺の許に入ったのは、彼が猫のように静かに俺の前から立ち去った日の3日後の夕刻だった。
いや、“偽の瞬”という呼び方はすべきではないだろう。
彼は“偽の瞬”などではなく、“瞬”なんだから。
ただ、俺の瞬ではないというだけで。

絵梨衣から連絡を受けた俺が向かったのは 都の指定を受けた救命救急センターで、彼がそこに運び込まれたのは半日前――つまり、今朝。
半日 様子を見ていたのだが、1時間前に医師が、『会いたい人、会わせたい人がいるようなら、呼んでください』と、彼の死を宣告したのだという。

「走ったんです。瞬くん。脚に怪我をした小犬が 学園の前の通りで動けなくなっていて、それを助けようとして。小犬に気付いていないのか、気付いても車を止めるわけにはいかないのか、車はどんどん走り抜けていくし、黙って見ていられなかったんでしょう」
「犬を助けようとして……轢かれたのか」
「いえ……」
「轢かれていない? ではなぜ――」
車に轢かれたわけでもない人間が救命救急センターに運ばれる事情というのが、俺にはわからなかった。
それは、ある意味では、俺が恵まれた人間だからだったらしい。
俺に事情を問われた絵梨衣は、恵まれているがゆえに他人の不運に思い至れないでいる男を 切なげな目で見上げてきた。

「瞬くんは いつも唇にルージュで色をつけていたでしょう。あれを塗っていないとすぐわかってしまうから。唇が紫色だということが」
「唇が紫?」
人間の唇が紫色だということの意味が、俺にはわからなかった。
俺は本当に恵まれた人間だったから。
「瞬くんは、生まれつき心臓に重大な欠陥があって、健康な人より血中酸素濃度が とても低いんです。常に酸素が足りない状況なので、唇が紫色になるんです」
「……」

俺には巧みに隠していたが、“瞬”は重大な心臓疾患を持っている子供だったらしい。
本来なら生まれてすぐ心臓の手術が必要だったが、当時は臓器移植法が改定されておらず、日本国内で その手術を受けることは不可能だった。
そして、国外で その手術を受けるためには億単位の金がかかる。
が、それはごく一般的な家庭ですぐに用意できる額ではない。
瞬の両親は手術を諦め、ひたすら彼等の小さな息子の心臓の鼓動が止まらないことを祈る日々を過ごしていたのだという。
そこに、窮状を広く社会に訴え、募金を募ってみてはどうかという助言をする者が現れた。
藁にもすがる思いで瞬の両親はその助言に従い、実際 彼等は それで1億数千万の手術費用を集めることができたらしい。

だが、彼等はその金で息子の命を救うことはできなかった。
集まった金を管理していた人間が――それは、瞬の両親に募金という手段に訴えることを助言した当人だったそうだ――多くの人間の善意の募金を持って逐電してしまったせいで。
それはすぐに世間の知るところとなり、瞬の両親に同情する者もいないわけではなかったが、世論は両親の迂闊と杜撰を責める方向に傾いた。
もちろん、二度目の善意の募金をする者はほとんどいなかった。

息子が生き延びる可能性を、親である自分たちが奪ってしまった。
瞬の両親はそう考えたのだろう。
死んで詫びるしかないと思い詰めたのか、あるいは生きていることに絶望したのか、子供に罪はないことを訴えようとしたのか――彼等は その命を自ら絶つことで、彼等の人生への答えを出してしまったんだ。

「ご両親が亡くなったのは瞬くんが3歳の時で――ご両親はもちろん、瞬くんの目に触れないところで――浴室で手首を切ったのだそうですけど、瞬くんはなぜか、血の海の中にいるご両親の記憶があるそうです。でも、それは多分……」
それはおそらく、長じてから両親の死の様子を聞かされた瞬が自分で作った記憶なんだろう。
瞬が学校に行かずにいることを許されていたのは、登校拒否や精神的な疾患のためではなく、心臓の欠陥のせいだった。
そして、瞬の猫のような忍び足は、彼が元気な小犬のように走ることができなかったから。
今になって知らされたその事実――瞬の命の時間が極少になった今になって知らされた その事実に、俺は苦いものを感じることになった。

瞬は助からない。
明日の今頃、瞬はもはやこの世界で生きていないのだ。






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