「――って、ミーノスたちは言ってたぜ」
翌日、星矢は、彼の談判の経緯を氷河に伝え、それを聞いた氷河は 早速 瞬の許に赴き(もちろん、職務に忠実な三巨頭に追い払われないように星矢と紫龍に同行を頼んで)、
「瞬。こいつ等はおまえの命令なら何でもきくと言ってるんだ。俺がおまえに近付くのを邪魔するなと、こいつ等に命じろ」
と、瞬に命じた。

「ラダマンティスたちが 氷河を僕から遠ざけていたなんて……」
瞬は 初めて知らされた その事実に大きなショックを受けたようだった。
だが、瞬が その頬を青ざめさせることになったのは、そんな事情があったとは露知らず、氷河に嫌われてしまったのかもしれないと落ち込んでいた自分自身を悔やんだせいだったろう。
氷河を信じることができなかった自分自身を省みて、瞬の頬は血の気を失うことになったのである。
何らかの誤解があって 三巨頭は自分から氷河を遠ざけようとしたのだろうし、そこに悪意はなく、あったのは ただ、彼等が彼等の新たな主君として選んだ者への厚意のみと、瞬は信じているようだった。
だから、瞬が三巨頭に下した命令は、
「きっと皆さんは、何か誤解されたんだと思います。でも、それは誤解ですから、氷河を僕から遠ざけるようなことはやめてください」
という、ほとんど“お願い”レベルのものだった。

それでも――主君の“お願い”は、三巨頭にとっては命令以外の何物でもなかったのだろう。
彼等は、
「わかりました。瞬様が そうおっしゃるのでしたら、我々は、瞬様とキグナスが二人きりになるのを妨げるようなことは、今後一切いたしません」
と言って、揃ってラウンジから退散していったのだった。
瞬に そう命じろと命じた氷河の気が抜けるくらい素直に、あっさりと。

「氷河、ごめんね。誤解してたのは あの人たちじゃなく、僕の方だよ。何も知らずに、氷河が僕を避けてるなんて、勝手に一人で疑って、落ち込んだりして――」
誰にも悪意はなく、すべては誤解だった。
そう信じている瞬が、申し訳なさそうに、切なげな目をして氷河を見詰めてくる。
「いや、おまえのせいじゃない」
そう言って氷河が瞬の肩に手を置くことを邪魔する者は、もう ここにはいない。
いなくなってしまった。
それは 氷河にとって非常に喜ばしいことで、実際、氷河は喜ぼうとしたのである。
だが、氷河には、そうすることができなかった。
素直に瞬の命令に従って、三巨頭は恋し合う二人の前から姿を消した。
その 気が抜けるほどの素直さ、従順さが、氷河の胸中に一つの疑念を生んだのである。

「やはりおかしい……変だ」
瞬に向かってではなく、その場に残っていた星矢と紫龍にでもなく、むしろ自分自身に向かって、氷河はそう呟いた。
その呟きの意味を理解できなかった彼の仲間たちが、怪訝そうな目を、瞬に恋し瞬に恋されている男に向けてくる。
その視線に応えて、氷河曰く、
「奴等が本当に瞬の身を案じているのなら、奴等は 俺が瞬に近付こうとするのを阻止するはずだ。少なくとも、俺ならそうする。俺みたいに ろくでもないことを考えている男が 瞬に近付くことを、俺なら決して許さない。たとえ瞬に命令されても、俺は瞬から俺を引き離す」
「おい、氷河。おまえ、急に何を言い出したんだ?」
すべてが望み通りとまではいかなくても、事態は旧に復した──氷河の告白が瞬に受け入れられた時の状態にまで戻った。
にもかかわらず、その事実を喜ばず 訳のわからないことを言い出した氷河に、星矢は眉をしかめてしまったのである。

が、星矢よりは氷河の考えがわかるらしい紫龍は、氷河の言葉に浅く、だが強く頷いた。
「確かに妙だな。俺が三巨頭なら――いや、俺が瞬の兄なら、おまえのような男が瞬に近付くのを 指を咥えて眺めているような真似は決してしないぞ。瞬に おまえを近付けるなんて、とんでもない話だ」
「あ、そういうことか。そりゃそーだ。地上で最も清らかな魂の持ち主が、氷河なんかに汚されるなんて、あっちゃいけないことだよな」
紫龍と星矢の発言は、全く友だち甲斐のない随分な言い草だったが、氷河の言いたいことは、まさにそれだった。
本当に瞬の身を案じているのなら、その人間は、邪まな欲心を持った男が瞬に近付くことを、命を懸けて阻止するだろう。
瞬にどんな命令を出されても、そんな命令には絶対に従わない。
瞬の身に危険が及ぶ可能性を看過しろと言っているも同然の命令に従うことは、決してしない――というのが。

つまり、その命令に従うことのできる三巨頭は心から瞬の身を案じていない──ということになる。
彼等は、瞬を彼等の大切な主君と思ってはいないのだ。
だとすれば、これは優雅に恋を語っていられるような事態ではなかった。

「瞬、気をつけろ。奴等の目的はハーデスの復讐かもしれない」
そして、最終的に氷河が辿り着いた結論は、それだった。
復讐。
瞬を主君と思っておらず、瞬の身を案じていない男たち――それも かなりプライドの高い男たち──が、彼等の旧主を滅ぼした人間に心を偽って近付く理由は、“復讐”しかない。
それ以外に考えようがないではないか。

「まさか」
氷河は 至って本気かつ真面目に そう考え、その考えを言葉にしたのだが、瞬は 氷河の考えを 至って明るく軽快な笑顔で否定してきた。
「ありえないよ。復讐なんて。そんな無意味なことをするために、わざわざ敵陣に乗り込むような危険なことをして、それだけなら まだしも、僕なんかに仕える振りをするなんて馬鹿げてる。彼等は、自分の進むべき道に迷ってはいるかもしれないけど、でも、絶対に復讐なんて考えてない。僕は、彼等のこと信じてるよ」
「おまえは そう言うがな……。奴等は、地上を死の世界にしようとするハーデスの計画を よしとしていた男たちだぞ。無闇に人を疑うのは愚かなことだが、やたらに人を信じすぎるのも危険な行為だ。信じるに足る何かを奴等が示したというのならともかく、奴等は口先で おまえに忠誠を誓っただけ。それが嘘だったら、俺たちが奴等を信じる根拠は何もない」
「根拠なんて……あの人たちは、優しい心を持った普通の人たちだよ」
「瞬、人を信じすぎるのは――」
『よくない』と、氷河は言うことができなかった。
それは、瞬に対して言ってはならない言葉だと思うから。

言葉を澱ませた氷河の顔を、瞬が覗き込んでくる。
そして、瞬は 氷河を見詰める瞳に 僅かに切なげな色を浮かべた。
「あのね。ミーノスは とっても花が好きなんだ。花を見るために、日に一度は庭に出てる。アイアコスは鳥が好きで、この庭に飛んでくる鳥たちにエサをあげてる。何の変哲もない ただの雀や鳩にだよ。ラダマンティスは――」
心を改めたと言う者たちを疑っている氷河を寂しく思い、その説得を試みようとしているらしい瞬が、ふいに くすくすと小さな笑い声を漏らす。
その笑いの響きを声に乗せたまま、瞬は“ラダマンティスの場合”を語り始めた。
「昨日、庭でしゃがみこんでね、ラダマンティスが地面に向かって ぶつぶつ何か言ってたの。いったい何してるんだろうって思いながら見てたら、ラダマンティスってば、地面を這ってるミミズに、『仕事に励んでいるな。結構』なんて、真面目な顔して話しかけて、褒めてあげてたんだよ。あの おっきな身体をしたラダマンティスが ちっちゃなミミズに。僕、おかしくて、可愛いくて、笑い声を抑えるのに苦労しちゃった」
「……」

それが おまえの三巨頭を信じる根拠なのかと問いかけて、氷河はまたしても 口にしかけた言葉を直前で止めることになった。
氷河が その言葉を口にする前に 氷河の言おうとしたことがわかったらしい瞬が、微かに首を横に振る。
「花や動物を好きな人に悪い人はいないなんて、言うつもりはないの。でも、花や動物に優しくできる人たちは、人間にだって優しくできると思うんだ」
「しかし……ハーデスの手先だった奴等だぞ。どんな企みを持って、おまえに近付いてきたか わかったものじゃない。言いたくはないが、おまえはハーデスの野望を打ち砕いた張本人だ」
「それほど大切な野望なら、ハーデスは 他人の身体を使ったりせず、最初から自分の身体を使って、それこそ自分自身の存亡をかけて挑むべきだったね。でも、ハーデスはそうしなかった。ハーデスは 地上を死の世界にするという野望に、本気ではなかったと思う。少なくとも、僕の身体で失敗したら、また数百年後に 次の誰かの身体を使って実現すればいい──っていう程度にしか本気でなかったと思う。ハーデスは、命の時間が限られていない神だから、僕たち人間とは違うから、そんな考え方をしてしまう――そんな考え方しかできないんだ。でも、ラダマンティスたちは僕たちと同じように、限られた命を持つ人間だよ。生き直すことを始める時を悠長に先延ばししてなんかいられない。急がなきゃ、自分の命そのものが終わってしまう。彼等は必死なんだ。必死で生き直そうとしている。なのに 氷河はどうして……そんな彼等を信じることができないの」

氷河に そう問うてくる瞬の眼差しは悲しげだった。
氷河は、瞬への答えに窮したのである。
まさか、ここで、『ついに気持ちを通じ合わせることのできた恋人と(主に夜間)親睦を深めたいという 恋する男の計画を邪魔するような奴等だから、俺は三巨頭を信じることができないのだ』などと、本当のことを言ってしまうわけにはいかない。
そんなことを正直に言ってしまったら、せっかく通じ合った恋人同士の気持ちも どうなるものかわかったものではない。
それは 絶対に言ってはならないことである。
だから、氷河は言わなかった。
もっとも、三巨頭が瞬に誓った忠誠が偽りのものかもしれないという深刻な疑惑が生じた今となっては、それは既に さほど重要な理由ではなくなってしまっていたのだが。
二人の甘く熱い夜も恋も、瞬の心身の安全が保障された状況下でのこと。
氷河には、二人の甘く熱い夜の実現のために、三巨頭以上に命を懸けて瞬の身を守る必要があった。

「人はそう簡単には変わらん」
「ん……そうかもしれないね。簡単じゃなかったんだよ、きっと。彼等は、彼等が絶対と信じていたものを僕たちに奪われたんだ。それは、僕たちがアテナを失ったようなものだよ。すごい衝撃だったと思うよ」
「……」
瞬は、それが人が変わる動機としては十分なものだと言いたいらしい。
だが、氷河は、瞬が比喩に用いた“アテナを失った自分”を想像してみて、瞬の意見に同意することはできなかったのである。
氷河はもともと アナテのため、地上の平和のために戦う聖闘士ではなかったから。
そうではなく──氷河は、自分が愛する者を守るために戦う聖闘士だった。
地上の平和を願うのは、そこが愛する人の生きている場所だから。
アテナに従うのは、彼女が愛し守ろうとしているものの中に 自分の愛する人が含まれているから。
ただ、瞬を失った自分の姿を思い描いた途端、氷河は瞬の言葉にすぐに同感できてしまったのである。
もし三巨頭が失ったものが、『この人こそ 自分の人生の道しるべ』と信じていた存在であったのなら、その衝撃は、確かに彼等を変えるだけの力を有していただろう──と。

「彼等は──彼等にとっての絶対者だったハーデスを失って、新しい生き方を探さなきゃならなくなって、藁にもすがる思いで、僕たちのところに来たのかもしれないでしょう? 僕たちは、彼等が 彼等の新しい人生の目的を見付けられるように、できるだけのことをしてあげようよ。彼等は、彼等が絶対のものと信じていた存在を失った。でも、彼等は これからも生きていかなきゃならない。今の彼等は、僕たちがアテナを失って 生きる目的を見失っているような状態なんだから」
「それは……そうかもしれないが──」
三巨頭が瞬に近付いてきた理由が、彼らの新しい人生の目的を模索することなのであれば、氷河とて、彼等を鬱陶しく思い憎むだけで何も言わない。

「僕は、彼等が選ぶ次の目的が、聖域で僕たちと共にアテナと地上の平和のために戦うことだったらいいと思うけど──彼等がどんな生き方を選ぶことになっても、手助けしてあげようよ。彼等が迷うことになったのは、僕たちのせいでもあるんだから。僕たちが彼等の生きる目的を奪ったんだから」
だが、三巨頭が既に彼等の人生の次の目的を定めた上で、瞬に近付いてきたのであったなら──彼等が選んだ次なる人生の目的が“彼等の人生の目的を奪った人間への恨みを晴らすこと”であったなら──それは、氷河には捨て置ける事態ではなかったのだ。

「奴等はハーデスを信奉していた。奴等が復讐を考えても、それは さほど不自然なことでは──」
「復讐をして、僕を倒して、それでどうなるの。そんなことをしても どうもならないことを、彼等は知ってるよ。そんなことをしても空しいだけだって」
「──」
瞬の言う通り、それは空しいことである。
だが、愛し信じるものを失って空っぽになってしまった人間が、“空しいこと”にしか すがれなくなる──という事態は、人の世では しばしば生じることなのだ。

空しい意地、空しいプライド。
空しいとわかっていても、他が見えない。
自分の人生に匹敵するほど大切なものを失って すぐに、次の実のある新しい目的を探そうと考えることのできる人間の方が稀なのだ。
母を失った氷河が、瞬に巡り会うまでにも長い時間がかかった。
希望を失い、だからといって死ぬこともできない人間には、たとえそれがどんなに空しいものでも、手近にある目的に すがることしかできなくなることがある。
どれほど空しくても──生きるために。
それは瞬には わからないことなのかもしれなかった。

瞬とて絶望を知らないわけではない。
むしろ、瞬の人生は絶望と挫折の連続だったと言ってもいい。
だが、瞬は、『理不尽な戦いのために つらい思いをする子供をなくしたい』という、失いようのない人生の目的を持っていた。
瞬は、その点で、三巨頭とも白鳥座の聖闘士とも立場を異にしている。
瞬は、人生の目的に ただ一人の人を選ぶということをしていない人間なのだ。
だから瞬は強い人間であることができ、強い人間だから人を信じることもできる。
人を信じることは、瞬の人間としてのアイデンテティであり、一種のプライドでもあるだろう。
それを、弱い人間の論理で否定することは、瞬を好きになってしまった男にはできることではなかった。

「……そうだな。奴等はわかっているだろう。それが空しい目的でしかないことを」
三巨頭の目的がハーデスの復讐とわかったら、その時にこそ 命を懸けて瞬を守ればいい。
今の氷河にできることは、瞬が信じることと瞬が信じる人を否定せずにいることだけ。
ついに気持ちを通じ合わせることのできた恋人と(主に夜間)親睦を深めたいという 恋する男の計画の実現が 来年のGWまで延期されることになってもいいから、三巨頭が瞬の信頼を裏切ることだけはないようにと、胸中で祈ることだけだった。






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