「僕たちはツェーリング家の人間なんです」 「ツェーリング家?」 本来なら行きずりの他人に そんな重大な秘密を打ち明けたくはなかったのだろう。 その夜、おそらくは兄に知らせずにヒョウガの部屋にやってきたシュンが、自らの出自をヒョウガに打ち明けたのは、シュンに山賊行為をさせているイッキに腹を立て 夕食のテーブルに着かなかったヒョウガをなだめるためだったのか、あるいは、ヒョウガに責められている兄を弁護するためだったのか。 そのどちらなのかを考えることもできないほど、シュンの告白にヒョウガは驚いた。 ツェーリング家は、現在のバーデン大公の地位を継承しているバーデン家の、いわば本家に当たる由緒ある家である。 12世紀に一つの主権国家として独立したバーデン地方の支配者の呼称は、バーデン辺境伯、バーデン選定候、バーデン大公と変遷してきたが、その座には 一貫してツェーリング家の当主が就いてきた。 そのツェーリング家が、18世紀に入り、主筋のツェーリング系と傍系のバーデン系に別れる。 やがて、欧州にナポレオンが登場。 ナポレオンが欧州を席巻していた時、当時バーデン大公だったツェーリング家当主は、ナポレオンに力に対抗し戦い敗れた。 その際、ナポレオンに取り入り、ナポレオンの後押しで、バーデン大公の地位に収まったのが、現在のバーデン家当主の父親である。 失脚したツェーリング家の当主は、大公の座を追われ、大公宮からも追放された――と、ヒョウガは聞いていた。 シュンとその兄がツェーリング家の血を引く者だというのなら、大公宮から追放されたツェーリング家当主は、はからずも この辺境のブライスガウに 隠遁の身を置くことになったのだろう。 バーデン家は、ナポレオン失脚以降後もドイツ連邦の中でうまく立ち回り、バーデン大公の地位の継承権を守って、現在に至っている。 バーデン家の先代当主は、ナポレオン失脚時に 大公位をツェーリング家に戻すべきだったろう。 それが筋というものである。 だが先代のバーデン家当主は、そうしなかった。 彼は それほどの お人好しではなく、大公の地位に未練がないわけでもなかったのだろう。 だが、ある意味では、それもまた“筋”である。 バーデン大公国を治める力を持つ者がバーデン大公の地位に就く。 権力は 生まれや血筋に伴うものではないということを ナポレオンが欧州中に知らしめたあとでは、それこそが“筋”――新しい時代の筋なのかもしれなかった。 だが、それにしても。 シュンの告白を聞いたヒョウガは、我知らず 深い溜め息をついてしまったのである。 これはシラーの『群盗』を地でいくような話ではないか――と。 確かあの物語も、弟の姦計で父親に勘当され、継ぐべき家と伯爵位を奪われた兄が、仲間と語らって山賊になる話だった。 現在のバーデン大公が ブライスガウ地方を冷遇迫害しているのは、この地にツェーリング家の者がいることを知っていたからなのだろう。 大公の過酷に住民が音をあげて、彼等が庇っているツェーリング家の者を殺すか投獄することを、大公は期待しているのだ。 バーデン大公が直接 ツェーリング家討伐に乗り出さないのは、己れの手で主筋の者を根絶やしにし、謀反者の汚名を着たくないからなのに違いない。 ナポレオン失脚後、以前の地位に返り咲いた各国の君主たちは、ナポレオン時代の反動で、ことさら 生まれや血筋というものに こだわるようになっている。 主筋殺しなどして 彼等に悪感情を持たれたら、バーデン大公国のような小国は すぐに周囲の大国に踏みにじられてしまうに違いなかった。 「僕たちのせいで――ブライスガウの人たちは自分に責任のないことで苦しめられている。だから、僕たちは奪われたものの一部を奪い返して、バーデン大公の圧政の被害者である この地の人たちに戻す仕事をしているだけだよ。これはツェーリング家の者の務めだ。僕と兄さんに課せられた義務。まして僕は――僕の父は亡くなる時、自分の次のツェーリング家当主に僕を指名したんだ。僕は、ツェーリング家に課せられた義務に責任がある」 だから自分は率先して略奪行為――もとい奪還行為に励む義務があり、それは兄に強いられたことではないと、シュンは言いたいのだろう。 だが、シュンの出自を知らされてしまった今のヒョウガには、シュンたちの略奪行為など大した問題ではなくなってしまっていた。 シュンがツェーリング家の人間だというのであれば、問題は、シュンが取り戻したいものはバーデン大公の圧政で不当に奪われたブライスガウの住人たちの税や財だけなのか――ということになるのだ。 「おまえはバーデン大公位を取り戻したいのか」 それこそが問題――根本的な問題。 現バーデン大公が案じているのも、その一事に尽きるに違いなかった。 とても重要なことだというのに、ヒョウガの質問へのシュンの答えは、 「わからない……」 という、非常に あやふやなものだったが。 「言いたくはないが……。おまえたちは、ブライスガウでは義賊と見られ、皆に感謝されてもいるかもしれない。だが、首都や他の地方の者たちからは、反体制のならず者・半端者の集団と思われている。反乱を起こしても、ブライスガウを出たら、おまえの周囲は敵だらけだ。協力者も賛同者も得られない。大公位の奪還など夢でしかない」 ヒョウガとて、現在のバーデン大公国における自分の待遇に不満がないわけではない。 そして、戦争ごっこも大好きである。 姫君のために戦うのは 素晴らしく楽しいことだろうとも思う。 だが、それが、今現在 平穏で静かな国を乱し、平和に暮らしている国民の生活を奪うことになるというのなら――。 国益を損ね 国民に犠牲を強いる戦いは、ヒョウガには“楽しい戦争ごっこ”ではなかった。 「既に 大勢は決している。ナポレオン失脚後のウィーン体制に人々は慣れてしまった。ツェーリング家がバーデン大公位に返り咲くのは無理なことだ。現在のバーデン家の支配を国民が皆、受け入れているんだ。今のバーデン大公は、特別英邁な君主ではないが、現実的で外交術に長け、妥協することも知っている人物だ。そして、我が国はドイツ連邦内で強い立場にある国じゃない。今 内乱で国力を殺がれたら、この国がオーストリアかプロイセンに併合されるのは 火を見るより明らか。争いは 民を疲弊させるだけで、国にどんな益も もたらさない」 シュンはわかっているのだろう――わかっているようだった。 そういう顔をしていた。 「内乱なんて……。僕は、本当は誰とも争いたくない。人を傷付けるのは嫌い。大公位なんて、僕はいらない。バーデン大公がブライスガウへの迫害や搾取をやめてくれたら、僕たちだって山賊まがいのことをする必要はなくなる。だけど――」 だけど――。 シュンのその願いを叶えるために、シュンに何ができるのか。 シュンはどうすべきなのか。 シュンには それがわからないのだろう。 本音を言えば、ヒョウガにもわからなかった。 「でも、バーデン大公は、ツェーリング家の者による大公位簒奪を恐れている。そして、僕と兄さんの死を願っている。ツェーリング家の血を引く者がいなくなって、大公位を簒奪される恐れがなくなったら、バーデン大公は ブライスガウへの過酷な仕打ちをやめてくれるかもしれない。でも、じゃあ、僕と兄さんは死んだ方がいいの? 死ぬべきなの? 僕はいい。僕はもともとツェーリング家の正統な跡継ぎじゃないんだから。亡くなる時に、父が なぜか兄さんを差し置いて僕を跡継ぎに指名しただけだもの。でも、兄さんは――兄さんの権利はどうなるの? 本当なら、兄さんがこの国の大公だったんだ!」 シュンの声は悲痛な響きを帯びていた。 だが、シュンの悲痛な叫びは、ヒョウガに一つの希望を与えてくれるものだったのである。 シュンが望んでいるものは兄の権利だけで、シュン自身は大公位も ツェーリング家の復権も望んでいないという事実は。 与えられた希望に後押しされて、ヒョウガはシュンに訴えた。 「なら、おまえだけでも! おまえだけでもツェーリングの名を捨てて、俺と共に来てくれ。俺は――俺は、おまえを愛している……!」 「ヒョウガ……」 それが唐突すぎる告白だということは、ヒョウガも自覚していた。 だが、ヒョウガは、悠長に構えてはいられなかったのだ。 ついに巡り会った運命の人、運命の恋。 姫君の強さ 可愛らしさに ただ見惚れているだけでは、事態は進展しない――好転しない。 告白もせず 姫君に決意を促すこともせずにいれば、姫はまた危険な略奪行為に赴くことになるだろう。 「そんなこと、できるわけが――」 「できないことではないだろう。おまえが大公位に執着していないのなら、ツェーリングの名など、おまえには厄介な荷物でしかない。そんなものを捨てたところで、おまえはどんな痛みも感じない」 「そ……そういうことじゃなくて……」 「俺はおまえが好きなんだ。強くて可愛い俺のシュン。退屈だった俺の人生に、おまえは光と嵐を同時にもたらしてくれた。これは神の計らいだ。おまえに出会って、俺の命と運命は やっと動き出した」 「ヒョウガ……」 山賊の一味ではないヒョウガが山賊の序列にこだわらないのは当然としても、現在の二人の関係は山賊の頭目と その捕虜である。 そこに今また、バーデン大公国最高の名門の子弟と 一介の平民という関係が加わった。 いずれにしても、ヒョウガの告白と訴えは 分を超えたものだった。 ナポレオン登場以前の時代なら、ヒョウガはシュンと口をきくことさえできなかったかもしれない。 だが、今は、それができる時代。 ヒョウガはナポレオンによる社会秩序崩壊の恩恵を受けて育った、今の時代の若者だった。 だから、その情熱の命じるまま、世が世なら この国の大公であったかもしれない人を抱きしめ、その唇に口付けることもできたのである。 シュンは最初のうちはヒョウガの胸の中で大人しくしていた。 嫌悪感を露わにし、ヒョウガの腕と唇から逃れようとはしなかった。 シュンが突然 身体を強張らせ、半ば突き飛ばすようにしてヒョウガの抱擁から逃れ出たのは、捕虜の口付けを嫌がらないシュンに力を得たヒョウガが 口付けの場所を シュンの喉元へ、そして胸元へと移動させていったからだったろう。 「やっ」 シュンは嫌悪のせいではなく、未知の行為への不安と怯えのせいで ヒョウガの腕から、そして彼の部屋から逃げ出したのだ――おそらく。 それはそうだろう。 山賊とその捕虜として出会って まだ10日余り、その上、好きだと告げた数分後に そこまでの関係を求める男など、シュンには山賊より乱暴で理解し難い存在であるに違いなかった。 そうすることが、ヒョウガには、自然で当然で、運命的なことにさえ感じられていたのだが。 「焦りすぎだ。落ち着け」 シュンを手に入れられれば、退屈で生きる価値さえ見い出せずにいた己れの人生が輝き出す。 戦争ごっこになど魅力も感じなくなる。 その確信のせいで、シュンの気持ちを考えずに 事を急ぎすぎた自分を、ヒョウガは叱咤した。 |