「シュン、こいつはバーデン大公のスパイだ。こいつの叔父は、なんとバーデン大公国の陸軍大臣だそうだぞ」
昨夜のヒョウガの告白がシュンを眠らせなかったのか――ほとんどイッキに引っ立てられる形でシュンの部屋に連れていかれたヒョウガは、そこで、昨夜自分の部屋で見たまま、寝台に入った様子もないシュンの姿を見ることになった。
さすがに少し重たげな瞼をしていたシュンが、兄の怒声を聞いて 瞳を大きく見開く。
戸惑い混乱しているようなシュンの視線が、ヒョウガはつらかった。
『俺は大公のスパイではなく、陸軍大臣のスパイだ』と細かな訂正を入れたところで、シュンの心証は何も変わらないだろう。
シュンとシュンの兄たちには、バーデン大公もバーデン大公国陸軍大臣も 等しく体制側の人間、等しくツェーリング家排斥に動いている者たちなのだ。

「ヒョウガが……大公のスパイ?」
「こいつは、おまえに恋を仕掛けて油断させ、俺たちを捕え、バーデン大公に俺たちを突き出すつもりだったんだろう」
弟が眠れずにいた訳をシュンの兄は知っているらしい。
おそらく 弟大事の一念で、彼はシュンの周囲に その目と耳を張りつかせていたのだろう。
傍迷惑な兄だと、ヒョウガは思わず嘆息した。
だが、今 問題なのは、シュンの兄のブラコンの重症振りではない。
今 危急存亡のときにあるのは、ヒョウガの恋の行方だった。

「ヒョウガ……僕を騙していたの? 全部、嘘だったの?」
『僕を好きだと言ってくれたのも?』と、兄の耳をはばかって、シュンが声には出さずに視線でヒョウガを責めてくる。
「違う!」
ヒョウガは、言下にシュンの誤解を否定した。
それは――それだけは、完全な誤解だった。
「シュン、俺と逃げてくれ。俺はおまえを死なせたくない。ツェーリング家の名も血も当主の座も捨てて、俺と一緒に逃げてくれ。そして、ツェーリング家の名も血もないところで、二人で生きていこう……!」
「そんなことできない。できるわけがないでしょう!」

ヒョウガの願いは あまりに我儘で――自分と その恋人のことしか考えていないものだった。
シュンが その声を荒げるのも無理からぬこと。
それはヒョウガにも わかっていた。
だが、それがヒョウガの本音、どんな嘘も虚飾もない正直な願いだったのだ。
正直すぎるヒョウガを、シュンが切なげな目で見詰めてくる。
「もしかしたら できるのかもしれないと思ってた。夕べまでは。でももう……。大公の軍が この村に向かって攻め込んでくるというのなら、僕は村のみんなを守らなきゃならない。それが僕の務めだ」
「シュン……」
正直すぎるヒョウガの願いが シュンの中に生まれつつあった疑念を消し去ることだけはしてくれたのか、シュンは、ヒョウガがシュンを好きでいることだけは信じてくれているようだった。
しかし、ヒョウガは、シュンの信頼を喜ぶことはできなかったのである。
我儘な恋人の心を信じられることが、今のシュンの胸を より深く傷付けて苦しめていることが わかるから。

「運命だったんだって……僕とヒョウガが出会ったことは きっと運命だったんだって信じかけていたのに……。ヒョウガがここに来たのは、僕に出会うためじゃなく、僕を殺すためだったんだね」
「違う! 俺は義賊を気取って いい気になっている山賊共を退治するために、ここに来たんだ。おまえの出自も知らなかったし、まして、こんな山の奥に俺の恋と人生があるなんて考えてもいなかった!」
その軽率への罰が、ついに巡り会った運命の恋を 巡り会った途端に失うことだというのなら、神は無慈悲にすぎる存在である。
ならば なおさら、神に 運命に逆らい打ち克とうと、ヒョウガは思った。
だというのに――。

「大公の軍に、僕をツェーリング家当主として差し出して。父の意図がやっと わかったよ。こういう時のために、きっと僕の父は僕をツェーリング家の跡継ぎに指名したんだ。兄さんに生き延びてもらうため」
それは、シュンには 生き延びる意思がないということなのだろうか。
無慈悲な神にも運命にも逆らうつもりはないと?
皆のために我が身を犠牲にし、従容と運命を受け入れようとするシュンの姿勢は、見ようによっては美しく潔いものなのかもしれない。
だが、ヒョウガには シュンの潔さは ただの弱気としか思えなかったのである。
シュンの犠牲的精神は、死ですべての片をつけようとする怠惰だとしか、ヒョウガには思えなかった。
シュンに出会う以前の自分がそうだったように。

しかし、ヒョウガはシュンに出会ってしまった。
恋に巡り会い、巡り会ったことによって自分の人生を生き始めたばかりだったヒョウガは、簡単に諦めてしまいたくなかったのである。
地に這いつくばり、泥にまみれることになっても、ヒョウガは 恋を実らせ、幸福になりたかった。
一人では無理でも、二人でなら、それは叶えられる夢である。
シュンに巡り会ってしまった今なら――今のヒョウガには そう思うことができた。

「だめだっ! おまえは生き続けるんだ、俺と!」
「そうできたら よかったんだけど……」
口許に力ない微笑を浮かべて そう告げるシュンは、既にすべてを諦めてしまっているようだった。
そんなシュンが、ヒョウガは焦れったくてならなかったのである。
「僕が出頭して、ツェーリング家の血が途絶えたことになり、山賊行為が行なわれなくなれば、大公もブライスガウへの迫害をやめてくれるでしょう。兄さんは、みんなを守ってくれる? 僕の命では 兄さん一人を守ることしかできない」
「そのために、おまえを犠牲になどできん」
シュンの兄がきっぱりした口調で即答する。
だが、すぐにイッキは その表情に弱気と ためらいの色を浮かべた。
何かを迷っているような沈黙。
そして、イッキは、長い逡巡のあとに、ゆっくりと口を開いた。

「親父が、俺ではなく おまえをツェーリング家の当主に指名したのは、バーデン大公位を諦めろという、俺への意思表示だった。争い事が嫌いで穏やかな性質のおまえに ツェーリング家の未来を決める権利を委ねることで、大公位に執着などせず 穏やかに暮らせと、親父は俺に言っていたんだ。既に この国はバーデン家の大公に治められることを受け入れ、慣れてしまっていた。しかし、俺はどうしてもおまえをバーデン大公国の大公にしてやりたかったんだ。俺はどうでもいい。だが、おまえには こんな辺鄙な村で 粗野な農民たちに囲まれている暮らしじゃなく、華やかな宮廷で多くの貴族たちに かしずかれる暮らしをさせてやりたかった。おまえの姿と心の美しさには それだけの価値があると――」
「そんなこと言わないで。僕は、この村で ずっと幸せだったよ。みんなは優しくて、兄さんはいつも僕の側にいてくれた――。兄さん。僕が望んでいるのは、大公位でもなければ 華やかな暮らしでもないの。僕の好きな――大切な人たちと一緒にいることだけ。いつも そうだった。でも、それももう……」

それも もう叶わない望みだと、言葉にはせず シュンが言う。
「そうか……」
シュンが何を望んでいるのか――シュンが華やかな宮廷での暮らしなど望んでいないことは、少し考えてみれば シュンの兄にならすぐにわかっていたことだったろう。
だが、イッキは、その“少し考える”ことを今まで怠っていたのだ。
だから――。
「俺がツェーリング家当主としてバーデン大公に首を差し出す。貴様、シュンと村の皆を守ってくれるか」
イッキがヒョウガに そう告げてきたのは、己れの ささやかな怠惰を償うためでもあったのかもしれない。
ヒョウガがシュンの兄に答える前に、イッキの提案はシュンによって拒まれてしまっていたが。
「兄さん、だめ! 兄さんだけは生き延びて……!」
「おまえの幸福のためなら、俺は命など惜しくはない」
「兄さん……!」


(うー……)
麗しい兄弟愛である。
実に美しい兄弟愛。
兄は弟を思い、弟は兄を思い、自らの命を愛する者のために捨てようとしている。
二人は、自分自身よりも 自分の愛する人にこそ生きていてほしいと、幸せになってほしいと、心から願っている。
そんな二人の美しい兄弟愛が、しかし、ヒョウガは気に入らなかった。
大いに、全く、腹の底から、気に入らなかったのである。
ゆえに、ヒョウガが 二人の間に割って入っていったのは、互いに互いのために死を覚悟した兄弟を救うためではなく、仲睦まじい兄弟を引き離すため――端的に言うなら 嫉妬のせいだった。

「イッキ。貴様、本当に大公位に未練はないのか」
「ない」
「ツェーリング家の名にも」
「ない。俺が望むのはシュンの幸福だけだ」
「なら、俺がどうにかしてやる。フライブルクに待機している軍の司令官は俺の叔父の腹心だ。大公より叔父に忠誠を誓っているような奴で、大公の命令と叔父の命令なら、まず間違いなく叔父の命令に従う。叔父はツェーリング家の先々代の当主に恩があるとかで、ツェーリング家の者の命を奪うような事態は避けろと、奴に命じているらしい。おまえたち兄弟を救うためだと それらしい理屈を並べ立てれば、奴は いっそ喜んで兵を退いてくれるだろう」

「ヒョウガ……」
「貴様、そんな安請け合いをして――」
シュンが不安そうな目を、イッキが不信げな目を、ヒョウガに向けてきたが、ヒョウガはそんな目には いささかも動じなかった。
これ以上 眼前でシュンとシュンの兄に麗しい兄弟愛の図など展開されてしまわないために、ヒョウガの頭は疾風迅雷の勢いで活動を始めていた。






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