そうして、ヒョウガは、その宣言通りにフライブルクの町に集結していた軍を退かせてしまったのである。
総攻撃の時刻になっても フライブルクの軍は進軍を開始せず、1週間後には首都バーデン=バーデンに退却するために動き出した。
ヒョウガは総攻撃が予定されていた日の朝 一度フライブルクの町に赴き、すぐにシュンたちの村に戻って、すべてを諦めたように――あるいは開き直り、居直ったように、傍目には のんびりと日々を過ごしていた――シュンたちの目には、そう見えていた。
ただ無為に日々を過ごしているようにしか見えていなかったヒョウガが、何か とんでもないことをしたらしいことに シュンたちが気付いたのは、軍の退却の報を聞いても、氷河が全く驚いた様子を見せなかったからだった。
ヒョウガが実際に何をしたのかは、シュンにもシュンの兄にも 察することさえできなかったが。

フライブルクから撤退した軍が都に帰着した翌日、バーテン大公国陸軍大臣の使いと名乗る男が 単身でシュンたちの村にやってきて、陸軍大臣からの書簡をシュンの館に届け、そのまま帰っていった。
大臣からの書簡といっても、そこには、『万事 上手くいきました。詳細は甥に お聞きください』という短い文章が記されているきりで、『私の私邸の門は、お二人のために いつでも開かれています』という文で結ばれていた。
ヒョウガに訊けと書かれてあるからには、ヒョウガに訊くしかない。
これまで『何をする気だ』と訊いても『上手くいくかどうか見極めてからでないと言えない』と答えるばかりで沈黙を守っていたヒョウガに、ツェーリング家の兄弟は大臣からの手紙を示して、説明を求めたのである。
「そうか。上手くいったのか。さすがは叔父上」
安堵の表情を浮かべて、ヒョウガが山賊の兄弟に告げた言葉。
それは、
「悪いが、おまえたちには ツェーリング家の血が流れていないことにさせてもらった」
というものだった。

「なに?」
ツェーリング家の血が流れていないことにしたと、ヒョウガはあっさり言ってのけるが、どうすればそんなことができるのか。
あっけにとられてしまった兄弟の前で、ヒョウガは彼が何をしたのかを やっと語り始めた。
「簡単に言えば、先代のツェーリング家当主には子供がなかったということにしたんだ。このままではツェーリング家が断絶してしまう。そうなることを恐れた先々代の当主は、どこからか戦争孤児を二人連れてきて、その二人を先代の当主の子として――つまり自分の孫として育てさせたということにした。自分たちに実はツェーリング家の血が流れていないことを知った貴様とシュンは、ツェーリング家の束縛から逃れた平穏な暮らしを願って、バーデン大公位奪還の意思を捨てた――という筋立てだ」

「そんな乱暴な……」
「大公やお偉方は そんな大嘘を信じたのか? バーデン大公国の大公宮には そんな馬鹿げた捏造を簡単に信じる馬鹿しかいないのか?」
バーデン大公国の大公宮には そんな馬鹿げた捏造を簡単に信じる馬鹿しかいないのかというイッキの疑念を、ヒョウガは否定しなかった。
「俺の叔父は、ナポレオン戦争時代の末期、先々代のツェーリング家当主の抜擢で将軍になったんだ。大恩ある人が失脚したのに自分の地位は安泰。その上、戦後にはバーデン家支配のもとで元帥にまで登りつめた。叔父は そのことにずっと負い目を感じていたらしい。おまえたちを救うためだと言って頼んだら、大臣の地位を利用して、おまえたちがツェーリング家とは縁もゆかりもない二人だという嘘の証拠を盛大に捏造してくれた」
当時は、戦争の混乱のために、親を亡くした子供、子供を亡くした親が多くいた。
捏造の証拠を整えることは、平時に比べれば、確かに容易なことではあるだろう。
だが、それにしても――。

「ナポレオン戦争末期の 特に混乱がひどかった時期のことだから、それを嘘だと言い切ることは誰にもできない。それに、今はナポレオン時代以前ほどには 血だの家名だのに価値や意味がない。地位や権力だって あやふやなもの、明日にはどう転ぶかわからない ご時世だ。ツェーリング家の名にこだわるのは現大公にとってこそ不利益と、叔父に大公を説いてもらった。ああ、ついでに、大公には、叔父経由で、ここにいる者たちの戦闘能力の高さと規律正しさのアピールもしてもらった。今は出来のいい兵士が少ないから、できればバーデン大公国軍に迎え入れたいとな。山賊共は 好きな部隊を選べばいい。都の部隊でも、フランスやスイスの国境警備隊でも。どこでも歓迎されるだろう」
「皆の行き場まで用意してもらえるのは有難いが――有難い」
ヒョウガの細部まで行き届いた気配りに感謝しつつ、今は その程度のことで血も家名も消し去ることができる時代なのかと、イッキは驚き 呆れてしまったようだった。
もちろん、今に限っては それは幸いなことだったが。

「それにしても、貴様、よくそこまで嘘八百を並べ立てたものだ。戯曲家になれば大成するぞ」
「戯曲家になるのは無理だ。シュンのためでないと、俺の頭は全く働かないようだ」
『シュンのため』イコール『自分の恋のため』イコール『二人の幸福のため』
どれほど怠惰な人間も 世を拗ねた厭世家も、明確な人生の目的さえ与えられれば 勤勉な人間になることができるものである。
シュンに出会って、ヒョウガは その真理を しみじみ実感していた。
ヒョウガは その人生の目的に出会うのが少々遅かった。
そのために 限りある貴重な時間を、長く無為に浪費してしまった。
だが、何事も――生きている限り、遅すぎるということはないだろう。
ヒョウガは、“シュンと二人で築く二人の幸福”という人生の目的を手に入れるために、最後の仕上げに取りかかった。

「これで、おまえは自由だ」
「自由?」
「そう。おまえは、自分の生き方を自由に選ぶことができる」
「自由……自分の生き方を自分で選ぶ……」
それはどんな人間にも喜ばしいことであるはずだった。
だというのに――シュンが心許なげな目をヒョウガに向けてくる。
『自由』『平等』『博愛』
それらの理想は美しいが、それらの理想に これまで全く無縁だった者が突然 それらを与えられても、その人間は戸惑うことしかできないものである。
それらは美しいと同時に、漠然としすぎているのだ。
自由に縁のなかった人間は、茫漠とした自由より、選択肢を与えられる方が、自由に振舞いやすい。
シュンもおそらく そうだった。

だから――ヒョウガはシュンのために、1本の選択肢をシュンの前に提示してやったのである。
「叔父が陸軍大臣なだけで、俺はただの小役人だ。軍に復位しても官位は准尉にすぎない。立ち回りも上手くできないし、嫌いな人間には世辞の一つも言えないから、出世の見込みは全くない。おまえに贅沢もさせてやれない。それでも おまえと一緒にいたいと言ったら、おまえは俺と来てくれるか」
という選択肢を。
シュンは一瞬で 自分の自由の使い方を理解したらしい。
「ヒョウガ! ヒョウガ、大好き!」
ヒョウガに選択肢を示された途端、シュンは瞳を輝かせ、ヒョウガの首に飛びつき、しがみついてきた。

それがヒョウガの恋が成就した瞬間だった。
ほんの ひと月前には想像もできなかった事態。
ただただ無為に生きていた ひと月前までの自分と 今の自分を比べると、ヒョウガは隔世の感さえ覚え、現在の自分の人生の 異様なほどの充実振りに目眩いがするほどだった。
嬉しさのあまり、ヒョウガの足は床から浮き上がりそうになったのである。
もっとも その数秒後、シュンの兄が 弟の恋人を悪鬼のごとき目で睨んでいることに気付き、ヒョウガの足は 逆に床に のめり込むことになってしまったのだが。
ヒョウガは確かに素晴らしい恋を手に入れることができた。
しかし、同時に 自分がとんでもなく強力凶悪な敵を作ってしまったことを、ヒョウガは嫌でも自覚しないわけにはいかなかった。

ともかく、そういう経緯で。
平時に生まれてしまったために人生を楽しめず、鬱々と退屈な日々を過ごしていたヒョウガは、一時たりとも気の休まらない緊張とスリルと刺激に満ちた日々を、争い事や 人を傷付けることが嫌いなシュンは、人を傷付けることなく生きていける穏やかな日々を手に入れることができたのである。
ほぼ真逆の二人の望みが、同じ時間、同じ場所で実現することになったのは、もしかしたら愛の奇跡なのかもしれない。






Fin.






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