黄金の十二宮

〜 いちごさんに捧ぐ 〜







気温は総じて温暖。冬に一定の降雨はあるが、夏は陽射しが強く乾燥する――という避暑地向け観光地向けの気候。
それが地中海性気候である。
7月初旬。
日本は まだ梅雨が明けていない時季だったが、ギリシャ聖域の上には 雲ひとつない青空が広がっていた。
空の青色は、まるで世界の果てまで晴れ渡っているかのように どこまでも続き、眼下にある十二の宮をすら 空の色に染めているように見える。
澄んだ空気、ほとんど湿気を含まない爽やかな微風。
アテナの聖闘士たちは、敵の来ない聖域で日なたぼっこをしているより、いっそ沙織に船を出してもらってエーゲ海クルージングにでも繰り出そうかと、そんなことを考えていたのである。

もっとも その計画は、
「ねえ、あなたたち、そろそろ自分の宮が欲しいとは思わない?」
という、不吉なほど明るい沙織の声のせいで断念することを余儀なくされてしまったのだが。
つらく厳しい幾多の戦いを経験することによって、アテナの聖闘士たちは 今では身近に迫る危険を瞬時に察知することができるようになっていた。
その戦士の勘が、アテナの聖闘士たちの中に大音量の警鐘を鳴らし始める。
けたたましいエマージェンシー・コールは、沙織のにこやかな笑みは不吉・危険だと、アテナの聖闘士たちに必死に訴え続けていた。
アテナ神殿のファサードから聖域を見下ろしていたアテナの聖闘士たちは、彼等の女神の登場によって、一様に心身を緊張させることになったのである。

「自分の宮とは どういうことですか」
紫龍の口調は、アテナの発言の真意を探るようなそれ――余人なら いざ知らず、アテナの聖闘士の五感をもってすれば、明確に不審の念を帯びていることが感じ取れる口調だった。
対するアテナは、その表情も その声も、紫龍とは正反対に 極めてリラックスしている。
「どういう意味って……言葉通りの意味よ。十二宮の守護者がいないというのは不用心でしょう」
「それはそうかもしれませんが……それは、我々に黄金聖闘士になれということですか」
紫龍の応答は、あくまでも慎重である。
これまでアテナの気まぐれに幾度も煮え湯を飲まされ続けてきた青銅聖闘士の一人として、紫龍のそれは至極当然の対応だったろう。
アテナに、その自覚は、(残念ながら)皆無のようだったが。

「あら、あなたたちは黄金聖闘士になりたくはないの? 黄金聖闘士になれば、箔がついて いいわよ、きっと。腐っても鯛、腐っても黄金というじゃない。金は腐食がないといっていい金属だし、銀と違って 手入れも面倒じゃないし、銅と違って錆びることもないし。私、聖域の十二の宮が全部 からっぽというのは カッコ悪くて嫌なのよ。万一、敵が聖域を攻めてくるようなことがあった時、十二宮に誰もいなかったら、敵だって気が抜けてしまうでしょう。そんなの失礼だし、気の毒だわ」
「気の毒? 聖域に攻め入ってくる敵たちを気の毒な人にしないために、我々に黄金聖闘士になれと、沙織さんはおっしゃるんですか」
紫龍は決して、言葉尻を捉えてアテナの揚げ足を取ろうとしているのではない。
そうではなく――彼は“にこやかなアテナ”の前では用心深く振舞う癖がついているだけだった。
沙織が何気なく口にする一言には、どんな底意が潜んでいるかわからない――彼等の女神は そういう女神だったから。
それが図星だったからなのか、あるいは単なる気分の問題なのか――紫龍に問われたことに、沙織は答えを返してよこさなかった。

「でも、なれと言っても、その力のない者に 十二宮を任せるわけにはいかないでしょう。任せられそうなのは、あなたたちしかいないのよ」
「アテナにそう言ってもらえるのは光栄ですが、我々はまだ未熟で、特に力の安定性という点では前任者には遠く及びません」
紫龍はどこまでも慎重だった。
彼の仲間たちも、紫龍にならって 心身の緊張を維持し、余計な口を挟むことを避けている。
絶対にアテナには何らかの企みがある、決して油断するなと、彼等のこれまでの経験が彼等に忠告を発し続けていた。

だが、そんな忠告も慎重さも、アテナの前では ほぼ無意味。
その事実を、アテナの聖闘士たちは、彼等の女神の、
「未熟だの何だとのと言っている余裕はないわ。聖域の人材不足は深刻なの。最低でも二つは兼任してもらうわ」
という一言で思い知ることになったのである。
あろうことかアテナは、それを完全に決定事項として 彼女の聖闘士たちの前に突きつけてきた。

「二つ兼任ーっ !? 」
慎重で い続けるにも限度がある。
アテナのとんでもない命令(?)に、最初に“慎重”の維持継続ができなくなったのは、当然のことながら某天馬座の聖闘士だった。
が、星矢に非難がましい大声をあげられても動じることなく、知恵と戦いの女神は あくまでもクールである。
「ええ。一輝を入れて、あなた方5人が二つ兼任してくれれば、十二ある宮のうち十個が埋まるわ」
「残りの二つはどうすんだよ」
「二人に三つ兼任してもらうわ」
「んな無茶 言うなよ!」
「あら。二つも三つも同じようなものでしょ」
「そういう意味じゃなくってさ!」

星矢はもちろん、二人が三つの宮の守護者を兼任することが無茶だと言っているのではなく、兼任そのものが無茶だと訴えているのである。
それがアテナにはわからないのかと、怒りと焦慮で混乱する頭で、星矢は思った。
が、なにしろアテナは知恵(と戦い)の女神。
彼女は星矢の言わんとするところを正しく理解しているようだった。
理解した上で、彼女は平然と言ってのけるのである。
「黄金聖闘士と教皇と謀反人を兼任していた二重人格者がいたくらいなんですもの。要は、やる気の問題よ」
などということを。
おかげで 星矢は、別の切り口からアテナに攻め込まなければならなくなったのである。

「やる気でどうにかなるなら、二つが三つでもいいけどさ。誰がどの聖衣を受け持つのか、どうやって決めるんだよ。どれとは言わねーけど、死んでも引き受けたくない聖衣とかあるじゃん」
「それはもちろん、公平に くじ引きで決めるわ」
「く……くじ引き……?」
細かいことは気にしない大様大雑把を売りにしている星矢が、いっそ五感を剥奪されてしまいたいと願うほど ひどい頭痛に襲われる。
それは星矢以外の三人も似たり寄ったりだった。
いっそ一輝を真似て 本日ただ今 放浪の旅に出ようかと、半ば本気で考えるほど、アテナの聖闘士たちは沙織の言葉に衝撃を受け、そして 疲労感と脱力感に襲われていた。

「そ……そんなもんで決めていいのかよ。黄金聖闘士だぜ、黄金聖闘士! 確か、アテナの聖闘士たちの頂点に立つ、すごく ご立派な奴等なんだろ、黄金聖闘士って」
星矢が、彼にしては珍しく 身分制階級制を是認した発言をする。
星矢の訴えに、アテナはクールに すっとぼけてみせた。
「以前 この聖域にいた黄金聖闘士たちは、どこかの青銅聖闘士に 十二の宮を ことごとく突破されてしまったという噂もあるようだけど。まあ、人の噂なんて信じてはいけないものなのでしょうけど、火のないところに煙は立たないとも言うし」
「それとこれとは……」
「それに、これも噂なのだけど、聖闘士の頂点に立つ黄金聖闘士が守護する宮を突破した その青銅聖闘士たちは、黄金聖衣どころか神聖衣をまとったこともあるとか」
「……」

アテナの表情は、あくまでも どこまでも にこやかである。
にこやかに 当てこすりを言ってのける。
やはり“にこやかなアテナ”はアテナの聖闘士たちの鬼門だったかと、神聖衣をまとったことのある青銅聖闘士たちは苦い気持ちで思うことになったのだった。
それでも、なんとか気を取り直した紫龍が、再度アテナへの反撃を試みる。
「だからと言って、くじ引きというのは ふざけすぎているのではありませんか」
「あら、くじ引きを馬鹿にしてはいけないわ。くじ引きというのは、ギリシャ神話的には、事を決する際に用いる極めて神聖で由緒ある方法なのよ。ゼウス、ポセイドン、ハーデスの三柱が それぞれの支配する世界を決める時に用いた方法が くじ引きだったことは、あなたたちも知っているでしょう」
「それは……知らないこともありませんが」
「それにね。古代のアテネでは、軍隊の将等、特殊な能力を要する職は別として、他のほとんどの公職に就く者を、特定の家や派閥への権力の集中を防ぐために くじ引きで決めていたの。くじ引きというのは公平性を保つ上で とても有効なやり方なのよ」

黄金聖闘士という役職は特殊な能力を要する職だろうと言いかけて、紫龍はそうすることをやめたのである。
沙織は、神聖衣を装着する力があるのなら無問題と、切り返してくるだろう。
紫龍は、神聖衣など装着するのではなかったと、今更 後悔してもどうにもならないことを後悔することになったのである。
が、諦めが悪いのがアテナの聖闘士の身上。
ここで引き下がっては、アテナの聖闘士の名がすたる。
敵襲の際、あっちの黄金聖衣 こっちの黄金聖衣と着替えを繰り返しながら敵と戦うという馬鹿げた事態を、彼はどうあっても回避したかった。

「俺は、黄金聖衣をまとう者は、実力や適性を考慮して決めるべきだと言っているんです。くじ引きではなく」
「あら、だったら、あなたたちでバトルでもする? 私はそれでも構わないわよ。戦って、勝った者から好きな宮を選ぶの」
「それは――」
戦いの勝敗で決めるというやり方は、くじ引きよりは ましな方法と思わないでもなかったのだが、紫龍は できれば それは避けたかった。
仲間同士で戦うことを避けたいから――というのではなく、そんなことをしても誰も本気で戦おうとしないだろうことが 容易に察せられるから。
本気で戦わない戦いは、普通の・・・聖闘士には 手抜きと油断を体得するマイナスの影響しか もたらさない。
本気にならないために緊張感を維持して戦うアンドロメダ座の聖闘士のような芸当を、普通の聖闘士はしないし、できないものなのだ。

「せめて、話し合いで決めようとか考えないんですか。確か、以前の黄金聖闘士たちは守護する宮と誕生日が合致していたと聞いた覚えがありますが」
「そんな細かいことを気にしていたら、複数の宮を任せることなどできないでしょう」
だから そもそも兼任というやり方が無謀なのだと、紫龍は言っているつもりだったのだが、残念ながら そんな正論意見が聞こえる耳をアテナは持っていないようだった。

「くじ引きをするとしても、一輝が来るとは思えませんが」
「そうねえ。じゃあ、一輝の担当する宮は先に除いておきましょう。あなたたちが担当したくない宮を一輝に押しつければいいわ」
「欠席裁判ですか」
「欠席する方が悪いのよ。その代わり、一輝の担当は二つだけにしてあげましょう。瞬、それならいいかしら?」
「あ……」
もともと前へ前へと でしゃばる方ではないが、氷河のように無愛想な無口でもない瞬が、さきほどから ほとんど口をきかずにいた。
沙織に確認を入れられた瞬が、しばし何やら考え込む素振りを見せてから、小さく頷く。

「あ、はい。でしたら、乙女座は兄さんのために取っておいてください。シャカとの激戦を交わした思い出深い宮ですから、兄さんは乙女座の聖衣は他の人に渡したくないと思うんです」
「なに?」
瞬同様、さきほどから全く口をきいていなかった氷河が(氷河の沈黙は明白に不機嫌のせいだったが)、初めて声らしきものを発する。
それは、だが、ある意味 当然のことだったろう。
「いいのか? 乙女座の聖衣を一輝に渡して」
瞬は乙女座生まれである。
確かに 瞬はシャカと大々的に戦ったわけではないし、特に彼と親しかったわけでもなく、冥界では一度 殺されかけたこともあるほどだった。
が、もし瞬がどうしても黄金聖闘士にならなければならなくなったとしたら、その際に瞬がまとう聖衣は乙女座の黄金聖衣だろうと、氷河は思っていたのである。
だが、瞬は乙女座の聖衣には全く こだわりがないようだった。

「あと、我儘が許されるのなら、僕は魚座も除いてほしいです。アフロディーテは僕の先生の仇ということになってますし、僕が魚座の聖衣なんて身に着けたら、先生に申し訳が立たないですから。それ以外の聖衣なら、僕はどれでもいいです」
「俺たちは構わないが……」
瞬の提案に、瞬の仲間たちは異議もなかったし、特段の不都合もなかった。
瞬が黄金聖衣をまとうとしたら、それは乙女座か魚座のいずれかだろうと思っていた事実が、彼等を『これでいいのだろうか』という気持ちにするだけで。
が、仲間たちから異議が提出されないことに安堵したのか、瞬は 仲間たちの前で 嬉しそうな微笑を浮かべ、頷いた。

「じゃあ、一輝兄さんには、乙女座と魚座を受け持ってもらうことにして、残りの十個を僕たちで分けようよ」
「あ、ああ……」
とりあえず、その二つの聖衣は、星矢にとっても紫龍にとっても氷河にとっても“死んでも身に着けたくない聖衣”の筆頭だったので、除外されることは有難い。
ゆえに星矢たちは文句は言わなかった。
星矢たちには文句も不都合もなかった。
しかし、一輝にも文句も不都合もないかというと、それはまた別問題である。
そもそもあの一輝が乙女座の黄金聖衣や魚座の黄金聖衣をまとうことを よしとするか。
死ぬほど嫌がりそうだ――というのが、言葉にはできない瞬以外の青銅聖闘士たちの考えだったのである。
その二つの聖衣を差し出されて憤慨する一輝の姿を、星矢、紫龍、氷河には容易に想像することができた。

そんなふうに――青銅聖闘士たちは、欠席裁判の犠牲者に それなりの同情を感じていた。
だが、彼等は、いつまでも そんなことを気にしてはいられなかったのである。
真面目に裁判に出廷した彼等も、今は へたをすれば一輝同様の悲惨な目に合わされかねない状況にあったから。
この調子では、どの黄金聖衣を押しつけられるか わかったものではない。
氷河と紫龍の苦悩と懸念と憂鬱は、特に深刻だった。
彼等の頭上には、青く晴れ渡った明るい空が広がっているというのに。






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