そこにあったのは、数本のモップと箒、そして バケツだった。 他に、大きいものから小さいものまで10種類以上のブラシが並んでいる。 「何ですか、これは」 沙織が言った通り、確かにそれはサプライズな代物だった。 なぜ そんなものがアテナの玉座の後ろに積まれているのかが わからない。 紫龍に問われた沙織が、その笑顔の輝度を更に上昇させて、 「あら。見てわからない? 掃除道具一式よ」 と答えてくる。 「いや、それは俺たちにもわかるが、なぜ こんなものがここにあるんだ」 「まあ、氷河まで、なに白々しいことを言ってるの。担当する宮も決まったことだし、早速 取りかかってちょうだい。以前の黄金聖闘士たちは 皆ぐうたらだったから、もともと どの宮も掃除が行き届いていたとは言い難かったのだけど、住む人がいないと なおさら駄目ね。埃がたまるスピードが違うし、建物自体が生気を失っていく。ほんと、見てられないったら」 「担当の宮?」 「ええ。あなたたちに掃除してもらう宮。たった今、あみだくじで決めたばかりでしょう。忘れたとは言わせないわよ?」 「……」 アテナは至極自然な口調でそう言うが、青銅聖闘士たちは そんなことを、忘れる以前に知らなかった。 少なくとも、昨日から今日にかけて、彼等は沙織の口から『掃除』の『そ』の字も聞かされていなかったし、アテナお手製のあみだくじが掃除の割り当てを決めるものだという説明も受けてはいなかったのだ。 「若干……掃除道具とは思えないものもあるようですが」 この一大事に(?)、紫龍が そんなどうでもいいことを沙織に尋ねていったのは、女神によって与えられたサプライズから 彼が完全に脱しきれず、未だ混乱の中にいたからだったかもしれない。 「ああ、あれは一輝用よ。処女宮には沙羅双樹の苑、双魚宮には薔薇園があるから、草刈用の鎌や、刈った草を集めるピッチフォークも必要でしょ」 淀みなく明快に 紫龍の質問に そう答えてから、沙織は、アテナからのサプライズ・プレゼントの意味をまだ理解しきれていないらしい瞬の上に 視線を巡らせた。 「その二つの宮を瞬が除外した時には、私も内心びっくりしたのよ。いちばん掃除の面倒な二つの宮を 選んだように除外するんですもの。瞬は くじ運は悪いくせに、勝負の勘はいいようね」 沙織はもしかしたら、瞬の勝負強さを褒めたつもりだったのかもしれない。 だが、瞬以外の三人は その時 既に、この勝負の勝利者は 他の誰でもない女神アテナただ一人なのだということに気付いていたのである。 沙織は最初から そのつもりだった――彼女は最初から、青銅聖闘士を黄金聖闘士に任命するつもりはなかったのだ――。 「さあ、いつまでも ぼんやりしていないで、今すぐ始めてちょうだい」 「あ……じゃあ、黄金聖衣――黄金聖闘士には――」 アテナのサプライズの余波を最も強く受けてしまったらしい瞬が、どこか視点の定まっていない目をして、アテナに尋ねる。 アテナの返答は、白々しいほど はっきりしたものだった。 「何のこと? あなたたち、黄金聖闘士になんか なりたくなさそうだったじゃない。私は、なりたくないものになれなんて無理は言わないわよ? そんなものに いやいやなったって、まともな働きなんか できっこないんだから」 「それは そうかもしれないが、しかし沙織さんも人が悪い」 言われてみれば、確かに 沙織は、『自分の宮が欲しくない?』と青銅聖闘士たちに尋ねはしたが、『黄金聖闘士になりたくはない?』と尋ねることはしなかった。 沙織は、ただの一度も、彼女の聖闘士たちに『黄金聖闘士になれ』と命じてはいなかったのだ。 それはつまり、水瓶座の黄金聖衣の後継者も 天秤座の黄金聖衣の後継者も、まだ決まってはいないということ。 氷河はカミュに、紫龍は老師(童虎)に恨み言や泣き言を言われる理由はない――ということだった。 「まあいいか。掃除くらいなら、俺が宝瓶宮担当から外れていても、カミュも文句は言うまい」 「老師も、師の宮は弟子が掃除すべきだと言い張るために化けて出てくることまでしないだろう」 生真面目なところのある紫龍はともかく、宮の掃除など星矢より嫌がりそうな氷河までが、安堵の息を漏らしつつ、アテナの清掃命令に従う意思を示したのは、ある意味 当然のことだったろう。 彼等は、絶体絶命のピンチを無事に回避できたのだ。 「な……なんだ。そういうことだったんだ」 そして、絶望の淵から立ち上がったのは、氷河と紫龍だけではなかった。 それまで すっかり意気消沈しているふうだった瞬までが、なぜか今は浮上を果たしている。 瞬は、いつもの明るく邪気のない笑顔の持ち主に戻っていた。 「普通に掃除をしろと言ったら、嫌がられる。だから、沙織さんは 最悪の展開を見せて、それよりはましと思わせる手を使ったんだね。僕たちは その手に見事に引っかかったんだ」 「そのようだな」 実際 氷河と紫龍は今、黄金聖闘士などになるくらいなら、十二宮だけでなく教皇の間やアテナ神殿の掃除まで命じられても、その方が はるかに ましだと心の底から思っていた。 武器がいっぱいの天秤座の黄金聖衣と 立派な角のついた山羊座の黄金聖衣を引き当てた(つもりになっていた)星矢だけは、少し残念そうに口をとがらせていたが。 「沙織さんの方が僕たちより一枚 上手だったんだ。仕方ないよ。星矢、お掃除を始めよう」 瞬のその言葉に星矢が大人しく従う気になったのは、星矢もまた氷河たち同様、最悪のパターンより 次悪(?)のパターンの方がまし――いつもの笑顔を忘れて打ち沈んでいる瞬を見ているよりは 十二宮の掃除の方が はるかにまし――と思ったからだったかもしれない。 確かに、アテナの方が青銅聖闘士たちより一枚も二枚も上手だったのだ。 「しっかたねーなー。あ、でも、瞬、ちょっと手伝ってくれよ。最初にネビュラストリームで宮の中の埃を吹き飛ばしちまった方が、掃除も楽そうだ」 「うん。任せといて」 要するに、何も変わらない――自分たちは身に馴染んだ青銅聖衣の聖闘士でいることができる。 それは、実は星矢にとっても さほど残念なことではなかったらしく、たとえ十二宮の掃除という義務を果たすためでも、青銅聖闘士たちの足取りと気持ちは軽かった。 星矢に ハタキの代役を頼まれた瞬は その要請に快く応じ、仲間たちと共にアテナの前から辞去しようとしたのである。 アテナが、そんな瞬を引きとめた。 「あ、瞬はちょっと残ってちょうだい。お掃除用の洗剤を配るから」 「洗剤? それなら俺が――」 もしかしたら、この結末を誰よりも喜んでいたかもしれない氷河が、瞬を呼ぶ沙織の声に反応し、出口に向かっていた足を止め、後ろを振り返る。 沙織は、だが、鹿爪らしい顔をして、氷河に 回れ右を命じた。 「そうやって、掃除開始の時を少しでも先延ばししようという魂胆なんでしょう。駄目よ。瞬には あなたたちが掃除をさぼったり逃げ出したりしないように監督も頼むつもりなの。その打ち合わせに、監督される側の人間を同席させたら、ろくなことにならないわ。掃除道具は それぞれの宮に運ばせておくから、あなたたちは掃除用の水運びの作業に取りかかってちょうだい。多分、それがいちばん面倒で力のいる仕事だから」 「――」 こんなに喜んで掃除に取り組もうとしている男に、さぼりの疑いをかけるとは。 氷河は一瞬、沙織に物申したげな顔になった。 が、これまでの自分の言動を顧みれば アテナの疑いも致し方のないことと考え直し、結局 彼は素直にアテナの指示に従ったのである。 |