「洗剤は、どこにあるんですか」 アテナ神殿 玉座の間から仲間たちの姿が消えると、瞬は沙織に 洗剤のありかを尋ねた。 それらしいものが、その場には見当たらなかったのである。 だが、沙織は瞬に洗剤のありかを教えてはくれなかった。 代わりに、静かな声で、 「どうして水瓶座の黄金聖衣を氷河に渡すまいとしたの」 と、瞬に問うてくる。 「え」 それは、瞬には思いがけない問いかけ――要するに 不意打ちだった。 誰にも気付かれていないと、瞬は思っていたから。 驚いて瞳を見開いた瞬に、沙織が、 「あなたに悪意があったとは思っていないわよ。むしろ逆。あなたの中に悪意があるはずがないと思うから、私は不思議なの。あなた、あのあみだくじがどういう作りになっているのか わかっていたでしょう? その上で、水瓶座を選んだ」 と畳みかけてくる。 「沙織さん……」 知恵の女神を、自分は言いくるめることができるだろうかと、瞬は考えたのである。一瞬間だけ。 その一瞬間ののち、常に彼女の聖闘士たちの心身を案じ見詰めている女神をごまかすことは不可能だろうという答えに行き着く。 何より、彼女に嘘はつけない。 瞬は 無邪気な子供を装うのをやめ、観念して、彼の女神の前で正直になる決意をするしかなかった。 「沙織さんが、素直に 宮の順番通りに並んだくじを作るとは考えにくかったから……。でも、即席で作るようなものですから、そんなに凝った並びにするとも思えなくて、せいぜいアルファベット順――ギリシャ文字順かなと」 「その通りよ」 「となれば、並びは左から開始。ゴールさえわかれば、どの線を選べば目的の宮に行き着くかは、経路を逆に辿るだけでわかりますから」 「あなたは、最初に スタート地点を選ぶ権利さえ手に入れればよかったわけね。そして、水瓶座に辿り着く線を選んだ。でもどうして? 氷河がそれを手に入れたがっていることはわかっていたのでしょう?」 それが、瞬一人を この場に残したアテナの真意――アテナの知りたいこと、アテナの中に生まれた疑念だったらしい。 アテナの前で、瞬は、力なく首を横に振った。 「あみだくじの作りはわかっていたんですけど、僕は、氷河が水瓶座の黄金聖闘士になりたがっていることを知らなかったんです」 「え?」 瞬の返答を聞いて、沙織は虚を衝かれたような顔になった。 それはそうだろうと、瞬は思ったのである。 今なら 瞬も そう思うことができた。 「僕は以前、氷河に訊いたことがあったんです。氷河は黄金聖闘士になりたいのかって。そうしたら氷河は、そんなものにはなりたくないって答えた。自分が水瓶座の黄金聖闘士になることは、カミュの居場所を奪うことのような気がするからって。本当は、いつまでも水瓶座の黄金聖闘士の座は空位のままであってほしい。氷河は そう言った。だから……僕が水瓶座の黄金聖衣を手に入れて、ずっと身に着けずにいれば、水瓶座の黄金聖衣は誰のものにもならないことになるって思ったんです。氷河が水瓶座の黄金聖衣をもらってしまったら、氷河は戦いの時には それを身に着けることを強要される――期待されるでしょう? でも、僕なら、チェーンがある方が便利だからとか、何とでも言い逃れることができる。だから、僕が水瓶座の黄金聖衣の所有者になってしまえば、いつまでもカミュの居場所を残しておきたいっていう 氷河の願いを叶えてあげられると思ったんです。でも、それは僕の早とちりだったみたい……」 「瞬……」 どうしてそんな“早とちり”ができたのか。 そう言いたげな目でアンドロメダ座の聖闘士を見詰める沙織に、瞬は虚ろな笑みを返すことしかできなかった。 「そうですよね。カミュの居場所を奪いたくないということは、だから、水瓶座の黄金聖衣を他の人間に取られても構わないということじゃない」 「そうね」 「僕は、氷河に、自分の師を倒した負い目や後悔を忘れてほしかったんです。そのつもりだった。でも、もしかしたら――それはただの焼きもちだったのかもしれない。自分から望んで身に着けたいとは思わなくても、他の人には渡したくない。そんな、考えるまでもなく自然で当然な氷河の気持ちに気付かずにいたんだから、やっぱり、これは ただの焼きもちで……僕は、そんな常識的な判断もできないほど 冷静さを失っていたのかもしれない――」 「冷静さを欠いている人間は、あみだくじの内容を見透かしたりはできないでしょう。……じゃあ、最初に 乙女座と魚座を除外したのにも何か考えがあってのこと?」 「あ、それは……兄さんは、黄金聖闘士になんて絶対なりたがらなくて逃げまわるに決まってるから、みんなに拒否権発動も仕方ないって思ってもらえる宮を選んだんです。こういう言い方は、故人に申し訳ないですけど、乙女座と魚座なら、兄さんが単なる我儘で拒否してるんじゃないって、みんなに思ってもらえるでしょう?」 瞬の冷静な(?)判断に、沙織は苦笑した。 苦笑しながら、 「そうね。一輝が逃げまわるのは当然だと、私でも思うわね」 と答え、頷く。 「すみません。沙織さんは、そんな大事なことを僕たちに無理強いしたりする人じゃないってことは わかってたんですけど」 「掃除は無理強いするわよ」 胸中にくすぶっていた謎が解けて すっきりしたらしい沙織が、わざと人の悪い表情を作ってみせる。 瞬には、それがアテナの思い遣りだということは すぐにわかったが。 アテナは、アンドロメダ座の聖闘士が愚かな早とちりをしていたことを、氷河に知らせずにいてくれるだろう――。 「はい。氷河の先生の宮、心を込めて 掃除してきます」 「ええ、お願いね。それから、みんなの監督も。星矢や氷河は――教皇の座を賭けてもいいけど、きっと1時間で掃除に飽きて逃げ出そうとするわよ。賭けてみる?」 「きょ……教皇の座?」 アテナは 冗談で言っているのか、あるいは もしかしたら本気なのか。 確かめるのも恐かったので、瞬は アテナが持ち出した賭け話を 引きつった笑顔を作ることでごまかし、慌てて その場を逃げ出した。 |