瞬がアテナ神殿を出ると、そこに氷河がいた。
「おまえに荷物を持たせて、俺が手ぶらというわけにはいかないだろう」
氷河が、アテナ神殿から出てきた瞬の姿を認めると、アテナの命令に背いた言い訳をしながら、ゆっくりした足取りで 瞬の許に歩み寄ってくる。
「あ、洗剤は……」
今 言い訳が必要だったのは、まさに手ぶらでアテナ神殿を出てきた瞬の方だったのだが。
瞬が その言い訳を思いつく前に、氷河は瞬に低い声で尋ねてきた。
「沙織さんの言っていたことは本当なのか」
「あ……」

アテナとアンドロメダ座の聖闘士のやりとりを、氷河は聞いていたらしい。
瞬は いたたまれない気持ちになって、その瞼を伏せたのである。
決して氷河が欲しがっているものを脇からかすめ取ろうとしたわけではないのだが、瞬が実際にしたことは、まさに その通りのことだったので。
瞬は、氷河に なじられることを覚悟したのである。
だが、短い沈黙のあとに瞬に与えられたものは、難詰の言葉ではなく、悪意に取られても仕方がないような早とちりをしたアンドロメダ座の聖闘士の頬に触れる 恋人の優しい手だった。

「すまん。いらぬ気を遣わせた。俺は――俺が師を倒したことは忘れられないし、後悔も消えないだろう。だが、おまえが俺の側にいてくれれば、俺は耐えられるし、乗り越えられるんだ」
「氷河……」
悪意ゆえのことではなかったにしても、氷河には自分を責める権利がある。
そう思い 覚悟もしていたのに、言い訳のできない誤解をした無思慮な恋人を、氷河は許してくれるらしい。
瞬は、にわかに目の奥が熱くなってきた。

「ほんと? 僕は少しでも氷河の力になれてるの?」
「ああ。そして、おまえでないと駄目だ。まったく、こんなに可愛い顔をしているのに、本当に油断がならない」
「油断?」
なぜ そんな言葉が出てくるのか。
瞬が恐る恐る顔をあげ、氷河の顔を覗き込む。
不安そうな瞬の眼差しに出会って、氷河は少し慌てたようだった。
「悪い意味で言ったんじゃないぞ。おまえが優しいのは、人の気持ちを察し 思い遣ることができるからで――おまえが賢いからだということは わかっているんだ。だが、おまえは その難しいことを、いつも自然にやってのけるから、俺は時々 おまえの聡明に気付き損ねる」
「僕は そんなんじゃないよ。僕は――氷河の気持ちも沙織さんの企みも察し損ねた……」
「おまえが優しいことに変わりはない。まあ、俺はともかく、沙織さんに勝とうとは思わないことだな」
「そうだね」

優しいのは、愚かな早とちりで 恋人を窮地に追いやりかけた自分を許してくれる氷河の方だと、瞬は思ったのである。
あの・・アテナに勝つことができるとは思わないし、勝ちたいとも思わない――とも。
瞬は 氷河の忠告に素直に頷き、そして、氷河と連れ立って、二人が割り振られた宮に向かったのである。
アテナと地上の平和と安寧を守るために散っていった黄金聖闘士たちの宮の掃除に取りかかるために。

もし その時 、『氷河が1時間で掃除に飽きてしまうかどうか』というアテナとの賭けに瞬が応じていたなら、瞬は、アテナとの賭けに勝ち、教皇の座を手に入れることができていたかもしれなかった。
氷河は、瞬の優しさに報いるべく、彼にしては非常に熱心かつ真面目に十二宮の掃除という仕事に取り組んでくれたのである。
いくら掃除をしても出口の見付からない双児宮で遭難した氷河が、掃除開始から24時間後 瞬によって救出されるというアクシデントつきで。






Fin.






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