「敵襲……というわけではなさそうだな。では、この不吉な感じは何だ。瞬は無事か」
一輝の超高性能“最愛の弟”危機感知装置は、今日も通常稼働。
瞬の兄の登場によって、星矢は――星矢に少し遅れて エントランスホールに下りてきた紫龍も――
やはり瞬は今 危機的状況に追い込まれているのだと確信することになったのである。
「今はまだ無事だ。3時間後も無事かどうかは わかんねーけどな」
「どういう意味だ」
この男がやってきたからには、氷河の陰謀の頓挫は確定したも同然。
星矢は安堵の胸を撫でおろして、その日の日中にあった出来事を 事細かに一輝に説明してやったのである。
氷河の卑劣なやりようを聞いた一輝が、星矢の期待通り、まなじりを吊り上げ、怒りの髪を逆立たせる。
彼の背後には、不死鳥の代わりに 炎に包まれた不動明王の姿が 隆起する火山のように浮かび上がってきていた。

「しゅ……瞬の部屋に押しかけるだとぉ! あのド助平の大馬鹿野郎、瞬が大人しいのをいいことに つけあがりやがって……!」
「そのようなこと、余が許さぬ」
「へっ」
一輝の背後で炎と共に怒りを燃やしていた不動明王が、突然降ってきた耳慣れぬ声に ぎょっとして、目を しばたたかせる。
その声に驚いたのは、もちろん一輝の背後の不動明王だけではない。
瞬の兄の横に立つ黒衣の男。
つい数秒前までは何もなかった空間に どこからともなく出現した かつての敵に、まるで3年も前から その場に待機していたような顔をして口を挟んでこられたら、星矢、紫龍のみならず、一輝でも驚くだろう。
彼等は、もちろん驚いた。

「貴様、どこから湧いてきたっ」
「いつも そこここを ふらふらしているボウフラの分際で、余をボウフラのように言うな。余は神――そなたたち虫けらとは次元の違う存在なのだぞ。余は、余の大切な瞬の清らかな魂に危機が迫っているような気がして、わざわざ こんなところまで駆けつけてきたのだ。瞬を思う余の心は、アテナの封印を破ることもできたということになる」
神である彼の力の強大さも さることながら、彼の場合は、『瞬を思う心』の思い方が問題である。
少なくとも彼は、瞬の心身の保守保全を願ってはいない。
むしろ、その没収強奪こそが、彼の目的なのだ。

「実体か」
「せっかく余が地上にまで出向いてきたのに、余の美貌を見られぬでは、瞬に気の毒だからな」
「一応、親切心から教えておいてやるが、瞬は面食いではない」
「それはどうか。瞬は、キグナスのように顔しか取りえのない愚か者に心を許しているではないか」
「残念ながら、氷河の武器は顔じゃない。馬鹿で弱いことを武器にする男なんだ、あの卑怯者は。瞬は優しいから、馬鹿に同情する」
「許せぬな」
感情表現の豊かな(?)瞬の兄とは異なり、冥府の王は基本的に無表情である。
その目の動き、瞳の変化だけで、自身の感情を他者に伝える。
そして今、彼の目が作り出している表情から察するに、彼は白鳥座の聖闘士の戦闘方法に 大いに憤っているようだった。
が、今 この場では、より憤りたいのはハーデスより一輝の方で、その怒りの対象は 氷河よりも 冥府の王の方だったのである。

「許せんのは貴様だっ! 貴様、性懲りもなく、瞬のカラダを狙っているんだろう!」
「キグナスではあるまいに、人聞きの悪いことを言うな、この下種が。余は、余の瞬の清らかな魂にこそ心惹かれて――」
「瞬の清らかな魂に惹かれた男が、なぜ その魂を消滅させようとするんだ! 結局、貴様も氷河と同じ、狙いは瞬の身体なんだ。実に 嘆かわしい話だ。瞬を心から案じている人間が、この世に俺一人しかいないとは……!」
「おい、一輝。おまえ、俺と紫龍を除くのかよ!」
大袈裟に天(天井)を仰いで痛嘆してみせる一輝に、星矢が横からクレームを入れる。
瞬の仲間として、また 氷河の卑劣を快く思っていない一人の人間として、彼のクレームは至極妥当なものだったろう。
一輝は、星矢からのクレームを にべもなく撥ねつけたが。

「貴様等も信用ならん! 貴様等は、氷河が瞬の部屋に行くと勝手に決めたのを 止めようともしなかったんだろう!」
「俺たちは一応 止めたんだぜ。でも、瞬が『いい』って言ってんのに、俺たちに何ができるっていうんだよ」
「瞬は、『いい』と言わせられたのだ。キグナスの策略によって。それがわかっていながら、止めなかったというのであれば、そなた等もキグナスと同罪だ」
「俺のセリフを取るなーっ!」
よく、脳の血管が切れないものである。
言おうとしていたセリフをハーデスに かすめ取られた一輝が怒髪天を突いて怒声を響かせる様を見て、星矢は心の底から感心した。

一輝が青銅最強と言われる訳。
星矢は、それを、強大な力を持った敵に 幾度叩きのめされても 謙虚の美徳を身につけることなく、次の敵の前に毎回『ふっ』付きで偉そうに登場する、氷河とは一味違う厚顔無恥にあるのだと思っていた。
が、実は、一輝の強さは、はらわたが煮えくりかえるようなことばかりが起こる この世界で、その一つ一つに いちいち真面目に激怒しながら、それでも ぶち切れてしまわない脳の血管の丈夫さ、あるいは ぶち切れても瞬時に回復する自己回復能力にあったのかもしれない。
ハーデスの前で 怒髪天を突き、声を限りに怒鳴っている瞬の兄の姿を見て、星矢は そう考え直すことになったのだった。

そして、ハーデスはハーデスで、氷河や一輝とは違う神経と厚顔無恥の持ち主であるらしい。
彼は、過去の己れの所業を反省する様子もなく、そして 一輝の苛烈激烈な憤怒の炎に動じた様子もなく、逆に、実に堂々とした態度で 一輝への非難を開始した。
「そなたも、瞬の兄なら、なぜ こうなるまで放っておいたのだ!」
「貴様が変な聖戦を起こすからだ! 真面目に地上の平和と安寧のために戦っているものとばかり思っていたのに、氷河の馬鹿は、アテナの聖闘士としての戦いは適当に切り上げて、隙を見付けては まめまめしく瞬へのアプローチに努めていやがったんだ。そして、俺の目を盗んで、ちゃっかり瞬に告白し、いつのまにか のっぴきならないところまで瞬との仲を進展させてしまった。何千年前のことなのかは知らんが、すべては貴様がアテナとの聖戦なんぞ始めたせいだ! それさえなかったら、そもそも瞬は氷河と出会うこともなかったんだ!」
「実に壮大な責任転嫁だな。キグナスの卑劣姑息を 余のせいにするつもりか。このようなことを平気でしてのける男が 余の瞬の兄とは信じ難い。余の瞬が哀れだ」
「責任転嫁はどっちだ、この最低神野郎! 貴様に目をつけられたことが、瞬の最大の不幸だということに変わりはないだろうがーっ!」

再度 脳の血管が切れても不思議ではないほどの勢いで、一輝は 冥府の王を怒鳴りつけた。
ハーデスはといえば、一輝の主張を言いがかりと決めつけているのか、あるいは 誰に目をつけようと それは神に許された特権とでも思っているのか、自らの振舞いを反省した様子もなく、相変わらず 鳴き声のうるさい虫ケラを見るような目で、瞬の兄を見やっている。
二人の舌戦は、まるで噛み合っていなかった。

そんな二人を見て、紫龍は深い嘆息を洩らすことになったのである。
「倒すべき敵は同じでも、この二人は 共闘は無理そうだな」
「これに氷河が加わって、男三人の三つ巴の戦いが始まるのかよ? 見苦しさの極みだな」
「瞬も気の毒に」
これが、逃れることのできない瞬の宿命なのだとしても――だとしたら なおさら、同情に耐えない。
地上で最も清らかな魂の持ち主は、同時に 地上で最も悲運な人間なのではないかと、星矢と紫龍が思い始めた時。
自身の悲運に まだ気付いていないらしい瞬の嬉しそうな声が、夜の城戸邸のエントランスホールに響いてきた。






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