「兄さん!」
瞬の後ろには、今日も某白鳥座の聖闘士が控えていた。
三ヶ月振りに出会う兄の姿を認め、瞬が その瞳をぱっと明るく輝かせる。
ホールを突っ切り兄の側に駆け寄ろうとした瞬の足は、だが 兄の隣りに立つ黒衣の男のせいで ぴたりと止まってしまったのである。
その0.001秒後には、瞬に向けられる黒衣の男の視線を遮るように、氷河が瞬の前に立ちはだかっていた。

「なぜ ハーデスがここにいるんだ! アテナに封印されたんじゃなかったのか!」
「余の愛しい瞬の身に迫る危機が、余を静かに眠らせておいてくれなかったのだ。瞬の心身の清らかさを守るのは 余の務めだからな」
「僕の身に危機?」
ハーデスのその言葉を聞いた瞬が 不思議そうに瞬きを繰り返すことになったのは、極めて自然なことだったろう。

地上、天界、海界、冥界。更には 現在、過去、未来。
ありとあらゆる場所、ありとあらゆる時代を通じて、冥府の王ハーデス以上に 瞬にとって危険な存在はない。
瞬にとって最も危険な存在が、瞬の身に迫る危機から 瞬を守るべく動いている――とは、奇妙に過ぎる話なのだ。
この地上を死の世界にしようとした、アテナとアテナの聖闘士たちの最大の敵。
そのために瞬の肉体を支配利用しようとした傲慢な神。
そうはいっても、今は瞬の身を案じているという親切な(?)男。
過去の所業を あげつらって、その言葉の矛盾を当人に問い質すことは、瞬にはできなかった。

「あの……兄さんは、ハーデスの復活を察知して帰ってきてくれたの?」
仕方がないので 瞬は、数ヶ月振りに再会した兄に、婉曲的に事情を尋ねていったのである。
一輝の答えは、瞬が知りたいそれとは、微妙に内容が異なっていた。
「俺は、そこの図々しい大馬鹿毛唐野郎が おまえに不埒なことをしようとしていることを感じて帰ってきたんだ。まだ無事のようでよかった」
いよいよ 男三人の見苦しい三つ巴の戦いの開始である。
一輝の攻撃に、もちろん氷河は 即時の反撃に出た。

「無事とは何だ、無事とは! 貴様は、俺が瞬にとっての危険物だとでもいうつもりか! 瞬に対する俺の清らかな愛を侮辱するとは、たとえ瞬の兄でも容赦はしないぞ!」
「そなたの口から“清らか”などという言葉が出てくるとは、まさに笑止。それこそ“清らか”に対する侮辱であろう。この地上に そなたほど厚顔無恥な男はいないぞ、キグナス」
「だから、俺のセリフを取るなと言っとるだろーがーっ!」
「に……兄さん……?」

予想通り、実に見苦しく、ややこしく、面倒な展開である。
あまりに予想通りすぎて、星矢と紫龍は 自らの予見の力を嘆きたくなってしまった。
「星矢……紫龍……。これはいったい――何がどうなってるの」
訳のわからない展開に驚いて――というより、むしろ怯えて――瞬が、星矢と紫龍の側に避難してくる。
「何がどうって言われてもなー」
瞬自身には、もちろん いかなる罪も非もない。
にもかかわらず、この見苦しい争いの元凶は、それでも やはり瞬なのである。
しかし、その事実を瞬に知らせるのは忍びない。
責めることは、なおさらできない。
星矢は、大きく二度、首を横に振った。

「こんな訳のわからない男たちのやることの意味なんて、俺に わかるわけないだろ。まあ、ただ一つ確実に言えることは、氷河が今夜 おまえの部屋に行くことができなくなったってことだけだな」
「え?」
「うむ。一輝とハーデスは、瞬の部屋の前で寝ずの番くらいしそうだからな」
「あ……」
星矢と紫龍の断言に、瞬は眉を曇らせた。
いかに見苦しい男たちでも、瞬にとって 一輝とハーデスは、今夜ばかりは瞬を窮地から救う正義の味方のはずである。
だというのに、自らの窮地脱出を喜ぶ様子を見せない瞬を、星矢は訝った。

「なんだ? おまえ、氷河に襲われたかったのか?」
「お……襲うだなんて」
「ま、まがりなりにもアテナの聖闘士である仲間を卑劣漢と思いたくない おまえの気持ちはわからないでもないけどさ。でも、やっぱ、姑息な手で、無理矢理 取りつけさせられた約束なんて、無効になった方がいいだろ」
「それは……でも……」

姑息な やり方で合意させられた約束とはいえ、『はい』と答えたのは、他の誰でもない瞬自身。
自分に都合の悪い約束が、自分に都合よく反故になろうとしていることに、瞬は むしろ罪悪感を覚えることになったのかもしれない。
瞬は、いかにも心苦しそうに瞼を伏せ、そのまま顔を伏せてしまった。
瞬が そんな罪悪感を感じる必要はないのに――と、もちろん星矢は思ったのである。
同時に、そんな罪悪感を感じている瞬を、実に瞬らしいと思いもしたが。
ともかく、一輝とハーデスの登場で、瞬が窮地を脱したのは 紛れもない事実。そして 現実。
問題は、だからといって、瞬と瞬の仲間たちの上に平和の時が訪れたわけではないということだった。

「おまえの清らかな魂が お気に召して、おまえの身体の乗っ取りを企んでいるハーデスと、おまえの清らかな心に惹かれて、おまえの身体を汚そうとしている氷河と、おまえの心と身体の清らかさを意地でも維持しようとしている一輝。さて、どうなるか見ものだな」
一輝、ハーデス、氷河の三人が揃ったのでは、平和平穏など期待する方が愚か。
現実を認めて開き直ったのか、紫龍は、半ば 自棄になったような投げやりな口調で そう言った。
「理屈の上でなら、一輝に正義がありそうだが、ハーデスには神の力があり、氷河には恋する者の情熱がある。姑息なことを考える頭もな。勝つのは誰か、予断を許さない戦いだ」
その戦いの前では、傍観者に徹することこそが最善の道。
戦いの第三者でいることが、自らに降りかかってくるかもしれない戦いの被害や とばっちりを最小に抑える態度。
常識を備えた一般人なら、普通は まず そう考えるだろう。
もちろん、紫龍や星矢も そう思っていた。

が、その戦いの当事者たちは、言ってみれば全員が瞬の身内。
瞬を介して特殊な関係を――つまりは敵対関係を――構築するに至った者たちである。
瞬は、紫龍や星矢たちほどには、その戦いを他人事と割り切ることができずにいるようだった。
「氷河は別に僕を汚そうとしているわけじゃ……」
「なんだ、おまえは氷河の味方か? 氷河に肩入れするわけ?」
「誰に肩入れするとかしないとかいうんじゃなくて――僕は、こんな騒ぎを起こしてほしくないの。沙織さんが知ったら、なんて言うか――」
「沙織さんは 面白がるだけだろ。気にすんな」
「うむ。あの人は、たとえ それが人類の粛清を企てるような神であっても、自分の聖闘士が他の神サマに気に入られていることに悦に入ることくらい、平気でしかねない人だ。むしろ、その事実を 地上の平和の維持に利用しようとさえするような女神様だ。おまえが気に病む必要はない」

戦いの第三者にして傍観者の立場を貫くことを決めた星矢と紫龍の口調は、いかにも無責任。
とはいえ、彼等は、自分たちが根拠のない放言を口にしているつもりはなかったのである。
それは、言ってみれば、過去の豊かな経験という根拠に裏打ちされた安請け合いだった。
いずれにせよ、その夜、氷河が瞬の部屋に入ることができなかったのは、神にも否定できない厳然たる事実だった。






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