姑息な やり方で合意させられた約束は反故になった。
当然、瞬は、その心魂のみならず身体も清らかなまま、新しい朝を迎えた。
今日の瞬は昨日までの瞬と何も変わっていないのだから、瞬は 昨日と同程度に元気でいていいはずである。
しかし、その日、瞬の表情は朝からずっと 暗く沈んだままだった。
一輝、ハーデス、氷河の三人が それぞれにライバルの動きを牽制し合い、そのせいで誰も瞬の側に近付けずにいることが、事態を悪化させていた。

ラウンジの中央にあるソファで、瞬がずっと力なく肩を落としたままなのである。
おそらく 三人は三人とも、瞬の側に行き、瞬に対して何らかのアクションを起こしたいと思っているに違いなかった。
だが、それを、他の二人が許してくれないのだ。
氷河が瞬の側に行こうとすると 一輝とハーデスが、一輝が瞬の側に行こうとすると ハーデスと氷河が、ハーデスが瞬の側に行こうとすると 氷河と一輝が、それぞれの小宇宙を燃やして その動きを封じる。
氷は 炎と闇の連合軍を、炎は 闇と氷の連合軍を、闇は 氷と炎の連合軍を、打ち破ることができない。
三人の男たちの見苦しい三つ巴の戦いは、見事に膠着状態に陥っていた。
瞬を中心に正確な正三角形を描いている三人の男たちは、誰も それぞれの場所から動けずにいたのである。

その三角形の中に 星矢と紫龍が入っていくことができたのは、互いに牽制し合って身動きが取れなくなっている三人の男たちが、すっかり しょげかえっている瞬を、自分に無理なら他の誰かに力付けてやってほしいと思っていたからだったかもしれない。
要するに、星矢と紫龍は、一輝、ハーデス、氷河の三人に、“味方でもない代わりに敵でもない者”と見なされていたのだ。

「瞬、何 しおれてるんだよ。元気出せって」
「この異常な状況下で 朗らかでいろというのは無理な話かもしれんが、奴等は誰も おまえに悪意を持っているわけではないんだし――むしろ、好意しか抱いていないんだから、そう落ち込むことはない」
星矢と紫龍に励まされても、不気味な均衡を保っている正三角形の中心で、瞬は項垂れているばかりである。
処置に困った星矢が溜め息を洩らすと、その溜め息に誘われたように、瞬が、小さな声で、
「無理矢理でも何でも、僕は氷河と約束したのに……。こんなことになって、氷河は怒ってるんじゃないかな……」
と呟く。
どうやら瞬は、それが気掛かりで打ち沈んでいたものらしい。

「氷河だって、おまえのせいじゃないことはわかってるだろ。ドアにもベランダにも見張りがついてて、しかも それが一輝とハーデスだったんだぞ。氷河が蟻んこだったとしても、おまえの部屋の中に潜り込むことは不可能だったろうし」
「おまえが部屋のドアを開けなかったわけではないんだ。気にするな」
「でも……」

瞬の気落ちの原因が氷河にあることが明白になると、それまで 微妙なバランスの上に形成されていた正三角形に、初めて 僅かな力の歪みが生じた。
つまり、それまで自分の敵を牽制することにのみ 意識を集中していた三人の男たちが、その意識を 自らの敵たちではなく瞬に向け、それぞれの思考と行動を開始したのである。

「なぜ、あんな男のことを気にするのだ……」
自分のせいではないにしろ 結果的に氷河との約束を破ってしまったことを気に病み、いたたまれなさそうに顔を伏せている瞬を見て、ハーデスが低く呟く。
不可解な謎を訝っているだけでは答えは得られないと考えたのか、ハーデスはその疑念を瞬の兄に投じた。
「余の瞬は、なぜ、あんな下賤で姑息で卑劣で汚らわしい男に心を許しているのだ。フェニックス」
「何が『余の瞬』だ! 勝手に所有格をつけるな! 瞬は貴様のものじゃない!」
自分の左側にある三角形の一つの頂点に向かって吐き出すように そう言ってから、一輝は その視線を もう一つの右方向にある頂点の方に転じた。
そして、憎々しげな口調で氷河を糾弾する。

「この卑怯者は、瞬の優しい心に つけ込んだんだ。マーマがいなくて寂しいだの、師を自分の手で死に追いやっただの、自分の不幸や弱さを武器にして 瞬の同情心を買い、瞬が自分を放っておけなくなるような状況を作りあげた。何がマーマだ。母がいないのは、俺も瞬も同じ。師を殺すなんてことは、俺だって やらかしている」
瞬の兄による白鳥座の聖闘士への仮借のない攻撃。
その攻撃に対する反撃は、なぜか氷河ではなくハーデスから加えられた。
「ああ。そなたは それで一時ぐれて、余の瞬に迷惑をかけた大馬鹿兄であったな」
「なにっ」
余計なことを知っているハーデスを、一輝が ぎろりとめつける。
「氷河より先に、貴様と決着をつけてやろうか」
不愉快の極みと言わんばかりの形相で、一輝は今にも神への実力行使に及ぼうとした。

瞬の側で事の成り行きを見守っていた星矢と紫龍は、ついに正三角形の均衡が破られるかと緊張し、身構えたのである。 
が、兄とハーデスの険悪な雰囲気に慌てた瞬が、三角形の中心で執り成しを始めたために、不毛歪つな三角形は かろうじて三角形の形を保ち続けることになった。
「兄さん、やめてください! ハーデスも、兄さんを責めるのはやめて。兄さんは、僕の代わりにデスクィーン島に送られて、とても悲しい思いをしたんです。兄さんは何も悪くない。兄さんも、氷河のことを悪く言うのはやめてください。氷河は僕に同情を強いたことは一度もありません。氷河を支えてあげることができたら嬉しいって、僕が勝手に思っただけなんです!」
「だから、おまえが“勝手に そう思う”ように仕向けたんだ、氷河は。すべては、この卑劣漢の策略だ!」
「いいえ、違います!」

平素は兄に逆らうことなど決してしない瞬が、この件に関してだけは自分の意見を譲らない。
一輝には、瞬の自信が不思議に思えてならないのだろう。
星矢や紫龍も不思議だった。
昨日の一件だけをとってみても、氷河が平気で姑息な手を使う男だということを、瞬は知っているはずなのに――と。

氷河に対する瞬の信頼の謎は さておき、そんなふうに、瞬は、兄や氷河の振舞いを弁明し庇った――庇うことができた。
が、そんな瞬でも、ハーデスの所業だけは庇いようがない。
実際、瞬は、ハーデスが、自分と地上世界に為そうとしたことに いかなる弁明もしなかった――できなかった。
だが、それはハーデスにとっては好都合なことだったらしい。
瞬に庇ってもらえないことで、彼は、
「ああ、瞬。そなたは優しすぎるようだ。とどのつまり、キグナスもフェニックスも、そなたの優しさに甘えることしかできぬ惰弱者だということではないか」
と主張することができたのだから。

「瞬の清らかさに つけ込んで、瞬の魂を抹消しようとした貴様にだけは言われたくない!」
ハーデスの言葉が事実だっただけに、一輝は真っ向からハーデスの言を否定することはできなかったらしい。
彼は、ハーデスが口にした事実を否定する代わりに、ハーデスの権利と資格を否定することで、彼への対抗を試みた。
が、自分の為したこと(成し遂げ損なったこと)を罪とは思っておらず、むしろ人類への膺懲ようちょうは神の当然の権利という認識でいるらしいハーデスは、一輝の言を鼻で笑っただけだった。
そうしてから、その視線と非難の矛先を氷河に向ける。

「しかし、確かに解せぬ。聞けば聞くほど、この男は卑劣で下劣。地上で最も 瞬にふさわしくない男ではないか」
「その意見には同意する」
「その ふさわしくない男の手から 最愛の弟を守り切れずにいるような不甲斐ない兄に同意されても、全く嬉しくない。馬鹿な味方、非力な味方は、有能な敵よりも恐ろしいと、うまいことを言った人間がいたな」
「いつ、俺が貴様に味方すると言ったっ!」
同意すると言った側から、その相手への支持を撤回する。
この場合は、『ハーデスが、一輝に支持を撤回させた』と表した方が より事実に即していたかもしれないが、それにしても。
「本当に共闘できない男たちだな」
あくまでも 1対1対1、どうあっても 2対1になれない男たちを見て、紫龍は呆れたように呟くことになったのである。

陣営が3つあるために、迂闊に力での攻撃には出られない――という事情はわかる。
一方を攻撃すると、もう一方の敵に背後を突かれかねないのが、三つ巴の戦いなのだ。
しかし。
諸葛亮孔明が 蜀の劉備玄徳に“天下三分の計”を進言した時、その計の目的は、魏・呉・蜀の三国で力の均衡を保つことではなく、呉と蜀が結んで魏を倒し、その後 蜀が中国全土の統一を果たすこと――最終的に、蜀が唯一の覇者になること――だった。
三つの拮抗した勢力があれば、そういう展開を見せるのが普通なのである――自然に そうなるもの。
まず、2対1の戦い、その後、一時は結託した二つの力が相争い、最終的な勝者を決定する。
それが戦いのセオリーなのだ。
だが、この三人に限っては、そのセオリーが適用されない。
それぞれの我が強すぎるせいか、自分以外の二者への敵愾心が妥協を許さないのか、あくまでも どこまでも三角形。
そんな三人に呆れつつ、同時に紫龍は感心してもいたのである。
彼等の独立独歩の精神に。
が。

確かに天下は三分されているが、氷河の陣営が静かすぎる。
昨夜 瞬の部屋に行けなかったことが どれほど大きなダメージであったにしても――氷河の陣営が静かすぎるのだ。
三角形の静かなる一点――氷河に、紫龍は ちらりと視線を向けた。
一輝とハーデスに言いたい放題を許し 沈黙を通している氷河が、紫龍には平生の彼らしくなく思われたから。
同じように、氷河の沈黙を奇異に感じたらしいハーデスが、
「そなた、先ほどから黙りこくったままだが、反論の一つもできないのか」
と氷河を挑発する。
しかし、氷河は その挑発に乗らなかった。

反論する気がないのか、そもそも反論自体を持たないのか、あるいは 昨夜の不首尾のダメージから立ち直れずにいるのか――ともかく、氷河は沈黙したままだった。
そんなふうに全く手応えのない氷河との対決を早々に諦めたらしいハーデスが、再び一輝の方に向き直る。
「余が 余の瞬を余のものにすることが、この下劣な男から瞬の身を守る最善の道だぞ、フェニックス。余は、余と同体となった瞬にキグナスが近付くことを決して許さぬからな」
『それは瞬を守ることではない』―― 一輝は おそらく、そう言おうとした。
言おうとして、言わなかった。
一輝自身には、言わずもがなのこと。
だが、ハーデスは言われても理解しないだろうこと。
そんなことを あえて口にしても、不毛な言い合いが始まるだけだと、彼は考えたのかもしれなかった。
代わりに、彼はハーデスに問うたのである。

「貴様にはまだ 瞬の身体を乗っ取る力があるのか」
「アテナの封印は強力だ。今の余には 惑星を動かすほどの力はない。瞬自身のガードも固い。しかし、余の支配に抵抗しようとする瞬の心が弱まれば、それは決して不可能なことではないだろう」
そんなことを――言わずにいた方が有利有益なことを、ハーデスが あえて口にするのは神の傲慢ゆえか。
あるいは、それはハーデスの 自らの力への自信の現われだったのかもしれない。

ハーデスのその言葉に 最も強い衝撃を受けたのは瞬だったろう。
ハーデスの声や視線が届くところにいるのが恐くなったのか、瞬は ふいに 掛けていたソファから立ち上がった。
そして、そのまま、ほとんど逃げるようにして、ラウンジを出ていく。
それまで無言だった氷河が、無言のまま 瞬を追い、その氷河のあとを更にハーデスが追っていった。
何のことはない。
膠着した三角形を崩すには、三角形を構成する三つの角ではなく 三角形の重心にいた瞬が移動すればいいだけのことだったのだ。

「おまえは行かないのか、一輝。瞬の身が危ないかもしれないぞ」
一人 その場に残った一輝に、星矢が声をかける。
「氷河からはハーデスが、ハーデスからは氷河が、瞬を守ってくれるだろう。毒をもって毒を制すとはこのことだ」
皮肉げに そう言ってから、一輝は少し疲れた様子で、それまで瞬が掛けていたソファに我が身を預けた。
そして、やはり少々疲れた口調で、
「三角形を作っていたのでは、身動きがとれん」
と ぼやく。
「まあなー。三角形って、ほんと不毛な形だよなー」
そんな一輝に、星矢はしみじみ同意した。

実際、敵対し合う者たちにとっては、三角形は 極めて不毛かつ発展性のない形なのかもしれない。
瞬を重心に置いた三角形が崩れた途端、事態は 大きな進展を見せることになったのだから。

瞬と氷河、ハーデスがラウンジを出ていってから約30分後。
ラウンジに残っていた三人の青銅聖闘士たちは、城戸邸の庭で 未だかつて出会ったことのない強大な小宇宙が燃え上がり始めていることに気付いた。






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