「な……なんだ !? 」 「凍気か、これは…… !? 」 「ハーデスが瞬に何かしたのかっ」 星矢、紫龍、一輝が、玄関まで まわるのも面倒とばかりにラウンジの窓から庭に飛び出る。 城戸邸の上空では、青白く透き通った小宇宙が渦を巻き、周囲の空気を歪めていた。 星矢たちが その小宇宙を生んだ男の姿を見付けたのは、庭の東側にある薔薇園の側で、彼等がそこに駆けつけた時、薔薇園の薔薇はすべてプリザーブドフラワーになってしまっていた。 その薔薇園の前で、氷河が瞬を背後に庇い、ハーデスと対峙している。 二人の男たちは自らの小宇宙だけで、“敵”の小宇宙に対抗していた。 拳は使わず、二人は二人が立っている場所から動く気配もない――というより、彼等は“敵”の小宇宙に阻まれて 動くことができずにいるようだった。 神の小宇宙と、一介の青銅聖闘士の小宇宙の ぶつかり合い。 普通に考えれば、勝負は一瞬でつくはずである。 しかし、状況は“普通”ではなかった――勝負はついてはいなかった。 どういうわけか、力で はるかに勝ってるはずのハーデスが氷河に押され、神が一介の青銅聖闘士に防戦一方。 ハーデスの端正な顔は、氷河の生む小宇宙の力で歪んでさえいた。 「ど……どういうことだよ、氷河の方がハーデスに優勢なんて。氷河って、こんなに強かったっけ?」 「氷河、どうしたんだ! これは いったいどういうことだ!」 紫龍が怒鳴るような声で氷河に尋ねたのは、『なぜ二人が戦っているのか』ではなく『なぜ一介の青銅聖闘士が、神であるハーデスに対して優勢でいるのか』ということだったろう。 自身の優勢を当然のことと思っているのか、氷河は、二人が戦いに至った理由の方を答えてきたが。 「こ……この下種野郎が! 清らかな魂がどうのこうのと 偉そうなことを言っておいて、瞬に不埒な真似をしようとしたんだっ」 「不埒な真似って、また瞬の身体を乗っ取ろうとしたのか」 「その方が まだましだっ。この陰気野郎は、瞬を抱きしめてキスしようとしたんだ!」 ハーデスの所業を言葉にするのも我慢ならない。 氷河の声は そう言っていた。 「ハーデスが、瞬に……?」 もし それが事実なのであれば、氷河の怒りは至極尤も。 氷河が、これまで対峙してきた どんな敵に対するよりも強大な小宇宙を生むのも当然のことである。 しかし、それは星矢たちには にわかには信じ難いことだった。 ハーデスの目的は、瞬の身体を自らの意思で支配し、自分の手足として使うこと。 側に置いて愛玩することではないのである。 そうではないはずだった。 「なんだよ、それ。神様も結局は氷河と同レベルのただの男だったってことか? まあ、身体を乗っ取るよりは賢い瞬の利用方法だとは思うけど」 「誤解だ!」 氷河と同レベルと評されたことにプライドを傷付けられたのか、それまで氷河の小宇宙の力に抗することに専心していたハーデスが、初めて口を開く。 そのせいで、氷河の小宇宙は更に激しさを増した。 「誤解 !? 貴様、この期に及んで、そんな言い逃れが通用すると思っているのか!」 氷河の心身は完全に怒りだけに支配されている。 氷河が言ったことが事実なら 彼の怒りは当然のことだが、このままでは薔薇園の薔薇だけでなく、城戸邸全体が氷の城になってしまうだろう。 それどころか、アテナに封印される前のハーデスが地上世界に対して目論んでいたように、よりにもよって この城戸邸に死と静寂の世界が実現してしまいかねない。 星矢は、城戸邸を 「瞬、何があったんだ。ハーデスがおまえに何かしようとしたのか!」 一輝が、怒りというより焦慮でできた声で瞬に尋ねたのは、彼が、星矢と同じ懸念を抱いていたからだったろう。 そして、城戸邸を氷の城にせずに済む力を持っているのは瞬しかいないことがわかっていたから。 怒れる氷河を止めることができるのは、瞬しかいないのだ。 しかし、瞬の答えは ひどく頼りなげで、今ひとつ要領を得ないものだった。 「わ……わからないの。氷河が急に――」 「氷河? ハーデスじゃないのか?」 「俺じゃない! こいつがっ! こいつが俺の身体を使って、瞬に不埒な真似をしようとしたんだっ!」 「なに……?」 瞬の頼りない答えに、氷河が補足説明を加えてくる。 それは 自信のなさそうな瞬の声音とは対照的に 極めて力強い口調での断言だったのだが、だから その発言が説得力を持つか否か、人がその発言を信じるか否かということは、また別の問題である。 氷河の補足説明は、彼等の仲間たちに 速やかに受け入れられることはなかった。 むしろ、大いに疑われた。 氷河は いったい何を言っているのか。 ハーデスが自らの魂の器として選んだのは、瞬ではなかったのか。 ハーデスが自らの魂の器とすることができるのは、地上で最も清らかな魂を持つ人間ではなかったのか。 何はさておいても、城戸邸を死と静寂の世界にするわけにはいかない――。 一輝の疑いと焦慮は、星矢の疑いと焦慮でもあった。 そして、星矢は、疑念の解決よりも焦慮の解消の方を優先させた。 「瞬! 何でもいいから、氷河を止めろ。このまま氷河を怒らせておいたら、俺たちが今夜 寝る場所がなくなる!」 「そ……そんなこと言ったって……」 瞬とて、星矢の懸念している事態は回避したかったのである。 しかし、今 城戸邸の庭に現出しているのは、神の小宇宙と 神の小宇宙に匹敵する力を持った氷河の怒りの小宇宙のぶつかり合い。 今 氷河が小宇宙の力を弱めたら、彼はハーデスの小宇宙の力に真正面から さらされることになる。 二人に同時に小宇宙での攻撃を止めてもらわなければ、氷河が傷付くことが 避けられないのだ。 城戸邸を死と静寂の世界にしないための犠牲になるのが我が身なのであれば、瞬は一瞬のためらいもなく、己れの小宇宙を消し去っていただろう。 だが、そのために犠牲になるのが仲間の身となれば、話は別である。 瞬は、泣きそうな目をして 強大な小宇宙を生み 攻撃し合っている氷河とハーデスを見詰めることになった。 そんな瞬に、紫龍が同情の眼差しを向ける。 それなりに力と才と美貌を備えた男たちが、目的は微妙に違うにしても、瞬を巡って相争っているのだ。 人によっては悦に入って得意がることもあるだろうシチュエーションだというのに、瞬は ひたすら悲嘆にくれることしかできずにいる。 それは、瞬が、争っている二人に傷付いてほしくないと思っているからなのだが、その瞬の気持ちを二人の男たちは まるでわかっていない。 本当に馬鹿な男たちだと、紫龍は思ったのである。 「ああ、泣くな。馬鹿共は俺が止めてやる」 「え」 『どうやって?』と瞬が問う前に、紫龍は行動に出ていた。 「氷河、ハーデス。今すぐ小宇宙を燃やすのをやめろ。やめないと、俺は今ここで瞬にキスするぞ」 争い事の進展を止めるには、三角形を作るに限る。 紫龍の作戦は図に当たった。 新たに出現した第三の点。 “敵”が一人だけではないこと、その場に第三の点が存在することに気付くなり、氷河とハーデスは ぴたりと その小宇宙を燃やす行為を中断してしまったのである。 「瞬の気持ちより、敵重視か。呆れた男たちだ」 紫龍の非難に気まずい顔になったのは氷河だけだった。 だが、それは、ハーデスが紫龍の非難を的外れと思っているからではなく――彼が全く別のことに意識を奪われていたからのようだった。 つまり、冥府の王と白鳥座の聖闘士が、互いに最大限の小宇宙を燃やして相争うことになった原因に。 それは、その原因を知らない者たち全員が知りたいことでもあったので、紫龍はハーデスの無反省を重ねて責めることはしなかった。 その場に居合わせた者たちの中で最も好奇心の強い星矢が、紫龍に代わって議長席に着く。 星矢はまず、氷河の方に向き直って議事進行を開始した。 「ここで何があったのか、俺たちに説明しろ。氷河、おまえは、ハーデスがおまえの身体を使って、瞬をどうこうしようとしたって言ってたけどさ、ハーデスは地上で最も清らかな魂の持ち主を自分の依り代にするんだぜ。そして、おまえは地上で最も不届きな魂を持つ男。ハーデスが おまえの身体を乗っ取るなんて、無理な話。何かの間違いなんじゃ――」 「だが、事実だっ」 星矢の言を、氷河が怒声で遮る。 その後、氷河が自分の側の証人として召喚したのは、言ってみれば彼の敵である冥府の王その人だった。 視線で『事実を言え』と氷河に促されたハーデスが、まるで自分自身への不審感に囚われているような口調で、彼にとっての事実を証言し始める。 「余とて、驚いている。キグナスと瞬のあとを追って庭に出てみたら、瞬がキグナスに抱きしめられていて――余は、瞬はいったいキグナスの何に惹かれているのかと訝ったのだ。いっそ、キグナスの中に入り込んで、その謎を探ってみたいと考えたことは考えたが、まさか本当にキグナスの中に入り込めるとは――気が付いたら、余はキグナスの身体を乗っ取ってしまっていた」 「どういうことだよ。あんたの清らか好きが大嘘だったってことか?」 「嘘も真もない。それは ただの事実だ。余は清らかな人間にしか憑依できないのだ。汚濁や汚れと共にあることに、余の魂は耐えられない」 「でも、あんたの言うことが事実だったとしたら、それは氷河が――」 たとえ仮定文でも、その先を言葉にすることを、星矢の理性と判断力が阻む。 さすがは神と言うべきか、星矢が口にできなかった その仮定文を、ハーデスは臆することなく口にしてのけた。 「キグナスの魂が、余の憑依を許すほど清らかだったのだ。そうとしか思えん」 「……」 死の静寂よりも深い静寂が もし存在するとしたら、今 凍った薔薇園の前に出現した静寂が それだった。 星矢だけでなく紫龍も 一輝も、驚愕の形容動詞を冠された氷河も、驚愕の形容動詞を氷河に冠したハーデスまでもが、恐ろしい沈黙の淵に沈む。 その沈黙の淵から最初に脱出を果たしたのは、とりあえず その場の議事進行役を務めていた星矢だった。 深い底なし沼からの脱出を果たした星矢が、中立の立場にあるべき議長に全く ふさわしくない口調で――つまりは、どこまでも疑わしげで、困惑の響きを帯びた声で、 「氷河が……清らか……?」 と呟く。 「今は憑依できない。今のキグナスは、余への憎悪に満ちていて、清らかとは程遠い男になっている。だが、先ほどは確かに……」 「あんた、気は確かか?」 「それは正直、余にもわからぬ。だが、それは確かな事実だ。事実、あったことだ。瞬と二人きりでいる時だけ、キグナスが清らかな人間になるのだとしか思えん。憑依してしまったら、余の意思の方がキグナスの心に引きずられて、瞬が可愛らしく感じられて、抱きしめてやらずにいられないような気持ちになって――あれが恋という感情か……」 仮にも神の意思が人間の心に引きずられるなど、情けなさを極めた事態である。 だが、だからこそ――神としての強い矜持を持つはずのハーデスが 自身の無様を語る言葉を 虚言と思うことは、星矢たちには困難だった。 「そ……それが事実だったとしてもさ、瞬の前でだけ 氷河が清らかになるなんて変な話だろ。その逆なら、まだわからないでもないぜ。氷河は、瞬と――その何だ、ナニをしたくて うずうずしているケガラワシイ男なんだから」 「しかし、事実だ。瞬と対峙し、瞬だけを見ている時のキグナスの心魂は 確かに清らかで――」 『事実だ』と主張するハーデスの口調は いかにも自信なさげで、心許なげ。 そんなハーデスに加えられる反論は、対照的に断々固とした確信に満ちていた。 自信満々の反論を展開するのが白鳥座の青銅聖闘士というところに、星矢たちは妥当性の欠如と不合理不条理を感じないわけにはいかなかったが。 「俺が清らか? 貴様、言い逃れなら もっとうまい言い逃れを言え。それとも貴様は、まだ寝惚けているのか!」 「事実だ。余は、瞬を思う そなたの途轍もなく強い心に引きずられただけで、決して余自身が瞬に対して不埒な真似をしようとしたのではない!」 この場合、どちらの主張の方に より信憑性があるのかというと、それは圧倒的に氷河の方だった。 『白鳥座の聖闘士が清らかな男である』という主張には、どう考えても多大な無理があったのだ。 当然、星矢たちはハーデスに不信と疑惑の目を向けた。 ハーデスが、その視線に、彼らしくなく たじろぐ。 「しかし、事実なのだ……」 異端審問裁判で地動説を捨てることを宣誓させられ、その後、『それでも地球はまわっている』と言ったとされるガリレオ・ガリレイよろしく、ハーデスがぶつぶつと口の中で呟く。 「ほほほほほ」 そこに、高笑いと共に突如登場した救いの女神――まさに女神――は、もちろん、聖域と全聖闘士を統べる知恵と戦いの女神アテナだった。 登場時点では、彼女が誰にとっての救いの女神なのかは、その場にいる誰にもわからなかったが。 |